ベストセラーと小説と学者の関係

「夢を見るゾウ」という本がバカ売れしているそうで、ドラマや舞台とメディアを巻き込みながらの大ブームとなっているそうですね。フラフロのメンバーで出版社の人間がいまして、そんな話を聞いていて、かばんから取り出すもので、何気なく借りて読んでみました。

昔は、「ベストセラー」というだけで読まない、というような(笑)意固地な「情報統制」をしていましたが、出版社にいる以上マーケティング分析を忘れないメンバーの商売熱心さに感心すると共に、それに報いなければ、とわたしなりに一生懸命読んでみました。

「ベストセラーだから読んでみる」というのは、小学校の時の「窓際のトットちゃん」中学校の時の「サラダ記念日」「ノルウェイの森」以来かもしれません。(笑)

それで、その本は小説と自己啓発系のビジネス書の中間ぐらいのもので、しがないサラリーマンが「自分を変えたい」という念にかられ、それを手助けする神様(ゾウ)が目の前に現れ、自分を変えていく、という物語で、そのゾウの教えの数々は体系化され、一覧で見れるようになっていたりもしています。

まず着眼したいのは「小説」という形態です。前に「超左翼マガジン ロスジェネ」読んだときも小説の形で、引きこもって2チャンで悪意を振り回す若者の心象を書いたものがあって、でもそれ書いた人は小説家ではなくて、学者でした。それを見てひっかかっていたんですけど、この「夢を見るゾウ」も同じですね。これ書いた人も小説家ではないみたいです。

小説を学者や評論化といった人が書く、というのは別に今始まったことではありませんけど、「小説」という形態をとったほうが人に伝えやすいから、その「手段」をとる、というような動きって、どういうところから起こってきたんだろうと思います。逆に、一時期、小説家が小説を書かなくなる(書けなくなる)ということもあって、断筆宣言とかノンフィクションにいく、とかいう動きも、ありましたね。

わたしは「小説素人」で、中高生の時に近現代文学全集を読んでからは、パタッと小説は読んでいませんので、90年代の小説はどうだったのか、00年代の小説がどうだったか、とか知りません。知りませんっていうのは、自分が「お、これ興味ある」っていうものに小説的な表現のものがあまり無かった、というだけのことです。

それが、「小説的表現」のものを散見するようになって、それがなんかしらの引っかかりをするので、おや、これはどういった変化なんだろう?と素朴に思いました。

ひとつ思うことは、伝えたい、逆に伝えられたい、ことが「原理的」になってきている、ということはあると思います。原理的なこと、は時代遅れだ、という時代だったし、テクニックに翻弄されて原理が見えにくい時代が続いて、その中で、そもそも伝えること、のコストパフォーマンスとして「小説」はあんまり割のいい表現では無かった、とは言えないですかね。
つまり小説って「消費財」には向かないもの、だったと。

今は原理的なことが求められている、のほかに、最近はケータイ小説などの登場で、小説というものの敷居が下がってきたり、個人情報保護の時流から、ある事例を伝えたいときにオールフィクションにしたほうが都合がよい、という時代背景だって、あるかもしれません。
または、学者の事情があって、この不景気で研究費は削られ、スポンサーはいなくなり、自分で本を売って稼がないといけない(そのために分かりやすいものを作らないといけない)という事情だってあるかもしれません。

ま、たくさんあって、よく分からないんですけど(笑)、とにかく「小説」的表現界隈が、なんかザワついているような気配だけはあります。

それで、この「ゾウ」ですけど、150万部売れてるらしいですね。150万部って、相当凄いと思いますけど、誰が読んでるんでしょうかね。書いてある主題は、ビジネス書の王道を踏襲する、ある程度の「深さ」を維持したものだと思いますけど、やっぱり「安易に伝わるもの」と「伝えたいことの深さ」の共存は難しいですかね。

マジメに読んでみて、ゾウから最終的に伝わるのは、やっぱり「仕事や人生への手間と愛情」でしょうかね。「こうすれば成功する可能性はあるよ」という希望は持たせつつ、でも成功することが全てじゃないよ、ということも同時に伝えます。希望と前向きさを失ってはいけないけど、今日明日急に、キミの不遇の状況は変われないよ。つまり「諦め」と「希望」をまずは共存させなさい、その上で手間と愛情を持ってひとつひとつやっていきなさい、ということを受け取りましたけども。

ま、ここにずっと書いていることも原理(本質)は一緒ですけど、150万人のうち読んでその原理に膝を叩いて行動が変わる人って何パーセントなんでしょうね。

自分に足りない何か、を求めて本屋に行ったら、ベストセラーの棚に行かないとわたしは思うんですけどね。(笑)成功の物語、失敗の物語、幸福の物語、不幸の物語、世の中にはたくさんの物語があるわけですけども、人が今どういう物語を欲しているのか、ベストセラーを読んで、最低限それは体感しました。

逆に150万部売れちゃったことで(消費されちゃったことで)薄まっちゃう価値ってありますもんね。YMOみたいなもんで、作り手の意図や意識とは別のものになっちゃう。消費されることでいい、と思って作っていれば傷は浅いですけど、気づいたら消費されちゃってた、だと結構作り手は後で傷つく。ブームが去って、何も残ってない、みたいな風景に立ち尽くすことになってしまう。

これは多くのクラブミュージックのレコードから学んだことですけど、作り手が「消費されたい」と思って作るものは匿名で、っていうのの重要性ってあると改めて思うんですけど、これ書いた人は、どんな「つもり」で書いたんでしょうかね。この作者の今後と、「小説的なもの」の今後が、どうも気になる師走の一幕でございました。