鈍く複雑に気紛れに光るもの

さっき新聞を読んでいたら、過去数回ここで話題にした15歳の娘が父親を刺殺した事件が「少年院送りの保護観察処分」で帰結したみたいですね。

今調べてみたら、過去の記事は
「ぐっとエデュケイションシンドローム」(http://d.hatena.ne.jp/fraflo/20080723
「普通という権力」(http://d.hatena.ne.jp/fraflo/20080903
の2つが主ですね。

笑っちゃうのは、それに対する学識者のコメントで「親殺しということを考慮したのかもしれないが、処分が軽すぎる」ですって。そういうことを言う学識者も学識者だけど、それを素直に載せちゃう新聞も新聞だよね、と正直思います。

わたしは当事者の親にも殺した少女にも同情肩入れはしませんけど、その2回の記事書いたときと思いは一緒で、だから今回の帰結は支持します。

昨日読み終わった建築家による00年代都市論の最後は、建築家のこういう言葉で締められてました。

「(成熟してしまった00年代の)都市は、迷子になって絶望しないと分からない。そうやって絶望した人間だけが、初めてその都市と裸で無防備に向き合える。その絶望からスタートしなければいけないんです。」

「都市」を「家族」にしてみましょうか。

「家族は、迷子になって(ひとりひとりが孤独を痛感して)絶望しないと分からない。そうやって絶望した人間だけが、初めてその家族と裸で無防備に向き合える。その絶望からスタートしなければいけないんです。」

(「〜なければいけない」という表現は好きじゃないんですけど、原文ママ、使います。()の補足はわたしが付けました。)

昨今様々なところで「問題」や「危機」が叫ばれ、ソリューションは何か?ということを色々頭の良い人たちが考えるわけですけど、わたしの毎日のモノローグも同じですけど、都市論にしたって家族論にしたって、切り口は何でも、問題の本質とソリューションの糸口は、結局同じところにぶち当たるんだよね、と思います。

今の社会を支える「民主主義」だってひとつの主義に過ぎないし、勿論「振り子」でいいところも悪いところもあるんですけど、戦後民主主義は、誇大広告のように、いいところばっかりを協調したので、社会の多勢は無垢になり、ナイーブになり、潔癖になりますね。

都市は混沌であるから都市足りえて、人間も複雑だから人間足りえるのだとすれば、それを拒絶しないで粛々と受け入れる覚悟しか、主体性を担保するものはないと思っているのですけど、だから、さっきのナイーブなコメントをのたまわれた識者とか素直に載せちゃう新聞の知性は、イマイチ信用できません。

その都市論を書いた建築家の知性は、そういう意味では「信頼できる」ですけど、絶望した人間には都市が「分かる」というのは少し傲慢ではないかなと思います。

絶望を受け入れれば「向き合う資格」は手に入るけど、向き合えば向き合うほど「分からない」んじゃないですかね。その「分からない」のは都市も人間も「複雑」で「混沌」であるからですけど、だから「仕方ないよね」と諦めて「じゃあ変な悪あがきはしないで付き合うか」という順序なんではないでしょうか。

「混沌で複雑でどうしようもない都市(またはそこにいる人たち)と付き合う方法」を知りたくて、街に出てみる。今は街も人も単純化の傾向になってしまっている。だけど見つけにくいながら、その単純化した荒廃の風景の中にまだポツポツと、乱数で光と影が拡散するフロアと、そこに人がいる。

都市でしか成り立たない「宝探し」。人によって宝が何か、は違うのでしょうけど、都市の膨大な人口と情報から、その宝を探しながら毎日ニコニコ前向きに生きる。「成熟期の都市社会をどう生きるか」のソリューションはこれででいかがでしょうかね。

宝探しってワクワクしますよね。
ところで「ワクワクする」って語源はなんなんでしょうかね。ふと気になりました。