トーキョーバルーンファイト

今読んでいる「新都市論TOKYO」は建築家が語る「都市論」で、わたし建築学は素人ですけども、建築学の本って読むの好きです。(都市論は思想家が書く都市論のが好きですけど)

特に、都市や街の「裏と陰」を分析論じている本は、若かりしころ、探して見つけてはちょぼちょぼ読んでましたかね。

現在の東京を象徴する再開発地域「汐留」「丸の内」「六本木ヒルズ」「代官山」などを歩きながら、日本の「都市計画」のビジョンのなさとか、都市開発の裏事情(ヒト、モノ、カネの流れ)が分かって、ふむふむと読みました。

前に、「2016年東京オリンピック選手村予定地看板に見るデカダンス」(http://d.hatena.ne.jp/fraflo/20080729)で書いたことは、この本にも書かれていました。計画は短期的な「投資と回収」が最優先にきて、テーマパーク構想になって、裏と陰を消して、街は「嘘のように輝く」というオチですね。

読んでいくと、都市ってのは「欲望」と「気分」に支えられているんだと改めて感じますね。土地の上に欲望が建物群を作り、その「風景」が醸造する「気分」に人が巻き込まれていく。

だから、「オミズマインド」は、都市の地面がかもし出す品のない「臭い」と、ぐるぐるとたくさんの人を巻き込んでいく「都市の気分」から距離をおくために、ミズになり、浮遊する、ということでしょうか。

理屈ではなくて、皮膚感覚で「いやだなあ」と思う人は過去も現在もたくさんいて、都市を離れ、水に戻ったり、空中を飛んだり、地面に戻ったり、した人はたくさんいたし、歴史的に繰り返されてきたことですし、別にここで改めて言うことでもないですけど。

地面というのは「続いて」いるけど、わたしたちが「フラグメントフロア」という時、それは続いているはずの地面が、「欲望と気分」にさらされているところは暗転し、点在する「欲望と気分に巻き込まれてない」フロアを五感を使って見つけ出す、というようなイメージでしょうか。

ファミコンのゲームでバルーンファイトというゲームがあったんですけど、あのゲームは好きでした。あまり相手のバルーンを割ることには興味がなくて、高下しながら、浮遊を保つ、なんというか、その操作性が好きでしたね。

キャッチーな欲望と気分に左右されないけど、かたくなにそれを拒むこともしない。

硬い(固い)主義や主張はねえのかよ、という言葉もたくさんいただきますけど、オミズマインドとしては、アンテナはしまわずに、力を抜いて状況を見てれば、フロアが浮き上がってきて、バルーンファイトのキャラクターのように、危なっかしい乱高下をしながら、フロアを移動していくんですかね。

そんな、武器を持たず浮遊する。というのはとてつもなくリスクも高いけど、今のところそれ以外に自分の「美感」を守る術がない、という、辛い現実でもあるわけですけど。

10年ぐらい前に、まだ学生だったですかね。お台場の開発がひと段落して、猫も杓子もお台場、みたいな時期に「お台場じゃなくて三鷹団地にいけ」みたいなことを言っていたことがあって、今思うと笑っちゃうけど、三つ子の魂百まで、ですね。

三鷹団地って、要は高度成長でバカバカ建った団地と周辺地域が廃墟化しはじめたって時で、同じように繰り返す「虚飾」に巻き込まれないで、50年前の「お台場」に行って、夢の後の現実を前にしたほうがおもろいじゃん、ということでしたかね。

そういうとこいって、Aボタン連打してバランスを取るってのが、わたしの都市の楽しみ方、ですけど、ビル風にあおられて気分でステイタスを買わされAボタン押さなくても上へ上へと押し上げられて、下りはじめたら制御がきかなくなる。

「都市を浮遊する」のに、四角ボタンのコントローラだと危険です。