軒先にて

先日「嫉妬がマヒした表現=突き抜けた存在」に共感し惹かれるという話を書きましたが、生のレスポンスに耳を傾けると、嫉妬に悩む人ってやっぱり思った以上に多いんですね。自分の嫉妬心に苦しむも人からの嫉妬に苦しむも、ひとつにまとめますけども。

または都市は「欲望となんとなくの気分に支えられているのでは」と書きましたけど、それぞれの欲望は独立して存在するけど、「嫉妬」は、それを繋いで膨張させる役割を果たすのかなと、色々ひとの話を聞いていて思いました、

それぞれの欲望を嫉妬が繋げて地続きにしている、逆にいえば「嫉妬」がない(麻痺した)ところは切り離され、フラグメントフロア化している、とも言えますでしょうか。そのフロアをわたしたちは「好んで」いる。

ある欲望とある欲望を「嫉妬」が繋いで、なにか物体のようなものになって、回転して、それが竜巻のように人を巻き込んでいって、社会も人も足元を見失う。わたし自身もそういう経験をたくさんしてきました。

嫉妬にまつわる自分の経験を振り返ったり、人の話を聞いていると、「自由(リベラル)」という単語が浮かんできます。欲望を嫉妬が繋いで、駆動する竜巻に巻き込まれないでいられること、なんですかね。自由、というのは。

それだけ言うとかっこいいですけど、逆に言えば巻き込みの動力の中でなす術がない、そういう能力がない、という「絶望」を自分で受け入れることでもあると思います。

「栄枯盛衰」よりも「持続可能」それは「ロハス系」といった言葉で団塊Jrの潮流として出てきたりしましたけど、そういった新しい(今までと違う)価値観とか感覚とかスタイルとか、または何かの新たな再構築とか、そういう自由を志向する動きは、いつの時代も、ここみたいに因数分解して言語化しなくても、リアルでもヴァーチャルでも、そこかしこで起こっていますし、今でもそうでしょうね。

見えにくいわかりにくい社会では、その「同時多発」を全部把握することはそもそもできないし、逆に言えば、同じような志向の人たちを多く巻き込もうと思ったり、逆に巻き込まれたいと思ったりするような動きは今はいらないじゃんという、そもそもそういう志向なので、把握する必要もないのですけどもね。

インターネットは、人を解放して、狭い世界から広い世界へと、ひとの可能性を広げたかに見えたけど、わたしみたいな志向の場合は「なるべくおおげさにならない」ように巻き込みを避け、なるべく自由を確保したい、ということで、世間が考える理想の情報社会とか超高度資本主義とか、そういったものとは逆の動きに、結果的にはなっています。

そこで「じゃあなんでブログを書くの?」という質問をいただきました。

昔は、表現と発信が自分の可能性が広げると思ってリアルでもヴァーチャルでも表現したんですけど、実はそこに「欲望」と「嫉妬」がかなり入ります。(それが若さですけど)だから、表現は攻撃的になったり虚飾や見栄にあふれたり、無理がたくさん生じて「持続可能」なものにならないし、パッと輝くことはできても、それは廃墟化陳腐化する都市の建物群と一緒で、急に魅力を失ってしまう。

「いろんな人に知ってほしい」全開の派手な広告看板ではなく、地元の個人商店の軒先レベルで、「いつだれが入ってきてもよいように門戸を開いておく」こと、インターネットを「自分の生活を彩るひとつの可能性」として、使っているだけですかね。「必要条件」ではなく「十分条件」なんですね。インターネットはあくまで。

とお答えしました。

「門戸を開いておく」だけでは短期的な投資と回収の「ビジネス」にはならないし、積極的に人に知られることもないし、でもまあそれは、生身の世界でやってお金を貰って楽しく生活できていれば、充分であってですね。

いつ来るかわからない遠方からのお客様のために、とりあえず毎日店を開ける。こないかもしれないけど、こなくても困らない。ぐらいで、わたしにはいいんです。ヴァーチャルとの関わり、という部分は。

だいぶ癖になって自然になってきました。平日毎日更新。休日は、現実の商店と一緒でお休みですけど、24時間365日稼動ではなくて土日は休もうよ、の余裕、「前を通りかかって、ちょっと気になりまして」という人がひとり来た、それをただ「待てる」余裕。

ずーっと前に書いた夏目漱石小泉今日子に共通する「余裕主義」の構造と、それが何故今一部メディアに登場してくるかが、書いていて、わたしの中で解けた気がします。