宗教的節度

3連休挟んで、少し長いモノローグですが、お許しください。

「真に知的であろうとすれば、人間は宗教的にならざるを得ない」という言葉があって、この「宗教的」という言葉と「ならざるを得ない」という表現と感じ(節度)が、好きですね。

宗教というのは、何回か前に書いた「メルト感覚」での「性」の問題と一緒で、現代社会ではタブーですけど、タブーって言われると気になるじゃないですかね。(笑)

もう15年ぐらい前ですけど、20代前半の頃に、今の社会みたいなことになるだろうなと思って、仲間内(FRAGMENT FLOORS内)で「これから儲かるのは宗教法人だろ」みたいな話をしていて、誰を教祖にして、誰をシンクタンクにして、というようなアホなシュミレーションをしていたことがありました。(笑 アホだなほんと。好きですけど)

でも今後、宗教って無視出来ないことになってくると思いますね。

私は別にどこどこの宗派でもないですし、悪徳新興宗教のまわしものでもありません。ありませんけど、きっとここに書いてあることは、生身の私を知らない人が読めば、おそらく多分に「宗教的」だろうと思います。やべーな、こいつ、と。(笑)

もっと「やべーよこいつ」なことを書くとですね。

ここで散々書いてきたように、タレント政治家みたいな、なんらかの媒体を挟んで何かを共感したり反発したりする、あるいは株の売買のように移り変わる数字だけで世の中が動く、そういう「手触りのないもの」が仕切る時代の終焉、があるように私は思うんですけど、それはこういったブログの役割も同じですね。15年前に夢を持ってインターネットに接続した時とは、閲覧する側も発信する側も明らかにマインドが違っていて、冷めてます。

宗教の対極には「無神論」とか「科学万能主義」とかあるんですけど、そういう意味で言うと「拡散」的には、「神はいるかもしれないし、いないかもしれない、科学は万能かもしれないし、分からないこともあるかもしれないし、それは別にどっちでもよい」ですかね。

これって、立場を表明しない、ということと同義かもしれないですけど、「明確な立場を表明しない」という立場を主体的に表明する、ということもあってよろしいんであって、それを許容するのが実はこういった個人メディアのプラットフォームの役割としてはあるんじゃないか、と思うし、そういう意味では、昔よりはだいぶ「その筋の方々」が立場を表明しやすい時代になったと思ってます。

ほんとはもっと曖昧なのに「私は何々を支持します」というのでないと大きいメディアは成り立ちませんから表現は極端になりますけど、インターネットも「テレビ」に変わる「大きいメディア」として捉えるうちは、今後の社会をどう支えるかの「位置」が変わってきちゃいますね。まあこのあたりは、後に譲りましょう。

いずれにせよ、これからは何らかの立場を表明「できない」人は、何らかの渦に巻き込まれてしまうかもしれません。それは宗教なのか政治なのか多勢の群集なのか、分かりません。

私は、宗教家ではないけど充分に宗教的人間ではある、といい意味でも悪い意味でも自覚しています。

なんで宗教的であることが大事かと思ったかなと今振り返ってみると、15年前の宗教法人シュミレーションじゃないですけど、そういう混沌の時勢になった時に、なんか巻き込まれたくないものに巻き込まれることは避けたいなと思ったんですね。

で、今はなんとかなってますけど、いつ何が起きるか、分からないですよね。今の仕事が無くなって収入が途絶えたぐらいは別になんともなりますけど、もっと根幹を揺るがすような、例えば愛する人を失ったり、隣人にナイフを突きつけられたり。そうなった時にどうするか、ですね。命を絶つのか、誰かにすがるのか、自助努力で克服するのか。いずれにせよ、今までの当たり前が崩れちゃう時代には、それに怯えても、またはそれを無視しても、主体的に生きていくのは厳しい、ということだけは分かっています。

で、どうするんでしょう。

仕方がないので、とりあえず、祈ったりしますかね。(笑)

これ、あながち冗談ではありません。

「今日も一日無事でありがとうございました」とか「今日も一日無事に過ごせますように」という類の感謝や祈願って、今する人をあまり聞きませんし、そういうことはタブーなので人にぺらぺら人にしゃべらないだけかもしれませんけど、どっちにしても世の中から忘れられがちであって、だから話題にしますけど。(少数派工作)

誰に向かって祈るのか、が「宗教」か「宗教的」かの違いかもしれませんけど、わたしには特定の神がいないので、例えば誰に対して祈るかというと、今のわたしが形成されるのに決定的に影響をくれた人々、その中にはお亡くなりになってしまった人もいれば、音信不通になってしまった人もたくさんいますけど、例えばそういう人たちに対して感謝したり祈願したり、するとか。あと先祖に礼を尽くす、とか。

連絡つく人には、会ったら感謝すればいいですから(笑)しませんけど。
つまり、わたしにとっての「祈り」って、他力本願の意ではなくて、自分の足元を見て確認する、の意味です。

祈ってどうにかなるのかよ、な問題は別として、見えないものを大切にするとか、その場にいない人のことを大切に想う、とかね。もしそういうことをおざなりにしているということは、逆に言うと「目の前の人」や「見えている状況」さえも大切に出来ないよねきっとっていう、真に知的、を分かりやすく言えば、そういうことなんじゃないか、とわたしは解釈しますけども、どうでしょう。