普通という権力2

前に普通という権力というのを書いて(http://d.hatena.ne.jp/fraflo/20080903)しばらく経ちますけど、この2ヶ月間ぐらいで、2人の同世代ママから同じ相談(というか愚痴というか悩みというか)を聞きました。

その内容は「自分のコドモがかわいいと思えない」という彼女たちなりの絶望です。真剣に、そして自分の親や夫からそのことについて責められるので言えず、閉塞と絶望を持って、日々葛藤している。

それ聞いて(一人は泣いていましたが)「普通という権力」のことを思い出して、彼女たちの話を最後まで聞いて、わたしなりに伝えられること、を伝えました。

「親は子供に慈愛を持って、かわいがる」というメッセージは、なんで世の中にあるんでしょうね。それは「親が子供を可愛がらない」という現実があったからですよね。つまりメッセージは歴史的には警笛だった。

日本は歴史的に子供を大切にする国ではあった、というのはいろんな文献で語られてますけど、世界では子供を虐げたり悪用したりする事例はたくさんあったんですよね。でも現在は、貧困も差別も緩和されてきたので、「親が子供を大切にする」が実現できる家庭は増えてきて、その本来警笛であったメッセージは、「常識」として、いつしかカウントされた。

それが正しいかどうかは別にして、そう考えないと「子供をかわいいと思えないワタシ」という呪縛から逃れられないんですよね。

かなり具体的な例ですけど、物っては考え様捉え様で、常識や慣例に囚われて、悩んだり苦しんだりする時間はもったいないし、それで心身を病んでしまうのでは元も子もない、とは、ここでもたくさん書いてきました。

例えば「おしん」ってありましたけど、おしんは子供の時に家の貧困を救うべく身売りされるわけですが、お母さんと別れるときの感動の場面がありますよね。船に乗って連れられていくしーん。あの感動の場面って「親が子供を平気な顔して身売りするはずがない」という常識が書かせたものかもしれません。でもそういう小さいことの積み上げが、そのママを苦しめている。(いや、ほんとに)

子供に愛情が沸かない、というのは、自分の恋人に「なんでこの人好きなんだっけ」と思ったりとか、自分の親兄弟に対して疎ましいと思ったりとか、人間だから、そんな感情、喜怒哀楽の起伏はあるわけじゃないですかね。自分の子供だって同じですよ。自分の身体から出てきたかもしれませんけど、他人ですから。

だから、処方は恋人や家族の時と一緒で、流す、ですかねって。2人とも、結構長い時間「子供を可愛いと思えない」という感情を持ち続けているのですけど、元に戻らないようであれば、それでも支障が出ないように「親子関係」「家族関係」をまわり巻き込んで作るような、最適化の努力をすればよいのでは、と。

今日は金曜日なので、まとめに入っちゃいますけど(笑)、本来カウントしなければいけないもの、例えば自分が相手の立場だったら不快だな、とか実際不快にさせたこと、とか、逆に自分が相手の立場だったら嬉しいだろうなとか実際感謝されたりとか、そういうことは自分の振る舞いや考え方の中にカウントしていって、先日の話じゃないですけど、意識化習慣化して、それ以降は、その件で自分の身のまわりの人間を不快にさせない、なるべく善意がまわるようにする、といったようなことが、インプットとアウトプットの基本構造としてはあると思うんですよ。

「〜ねばならない」とか、世にいう普通とか常識とか、それはテレビなのか活字なのか先生なのか親なのか、分かりませんけど、そういうことは後で検証用に使えばよいと思うんです。つまり実際インプットとアウトプットの基本構造は、自分以外の人との摩擦、によってしか機能しない、ということなんですかね。

そういう意味でいえば、上記の同世代ママ2人は、充分「摩擦」している。摩擦して葛藤している。だから子供育ててるっていうか、自分自身が育ってんじゃんねーって、笑って最後は場は前向きになったんで良かったですが。

見える権力から見えない権力まで、時に闘い、時にかわすのも容易じゃありませんけど、甘えず無理せず、自由を確保して開放的に生きるには、ま、最低限必要な労力なんでしょうね。

それも習慣化して「普通」にしちゃえば、労力でもなんでもなくなっちゃいますけど。

「普通」っていう言葉の使い方に改めて気をつけます。