並走と併走の心理

ダラリさんから「リレー論」についてレスいただきました。(http://ameblo.jp/dararhythm/entry-10154547844.html
「並走」の同志からレスポンスもらうと励みになります。(正直)

さて話題の「クソバトン」ですが(笑)、おっしゃるように、クソバトンを貰った後の対応こそ肝ですかね。クソを落としてから走る、クソを愛せるように走りつつ自分を変えていく、隣の人にバトンごとあげちゃう、捨てて次のバトンを貰う機会をもう一回探す。

なんでもいいですけど、クソバトンを貰った自分への「省み」を忘れなければいいと思います。この自省の節度がないと、どのバトン貰っても、きっといつまでもクソバトンだし、最終的に自分の前走者のクソついたままでは自分の次は誰も貰ってくれません。「新しいクソついちゃったごめん」は鮮度的にアリ、ですけど。(笑)

いずれにせよ、クソがついている事実を隠す、人にクソをなすりつけて無かったことにする、そういった逃げは何も状況を変えない、と私は思います。

さて(クソクソ言っといてかっこつける気もないですけど)、話は先に進みます。そうやって自省しながら走るんですけど、走るって物理的に「独り」です。孤独を受け入れる、という言葉は、今までもここでよく書いてますけどね。

バトン持って走ってる人は、まず自分のこと、分かってません。分かってないというか、分かったつもりにならず、いつも自分を疑う視座と節度を忘れない。走って移動しているから、昨日と今日は違うし、いろいろ忙しなく対応しないといけない障害物も多い。だから、こうやって今日の時点のわたしの表面(湯葉@ダラリ)をモノローグを書いて走った記録をクソと一緒につけとくわけですけど。

いつも「すいません。自分のことがよく分かりません」という状態なので、当然他人に「わたしを分かって」なんてお願いしたり、とてもできません。それで「孤独」を受け入れる=走る、のスパイラルになるんだと思います。

走るの独りじゃいや、って人がいますけど。

ほんの1ヶ月前、ある女性を窮地から救った(といったら上から目線なんで嫌ですけど他に言い方が見つからないので)んですけど、その子がそれをきっかけに、アタシのことをよく理解して分かってくれる人だと、わたしのことを思ってくれたみたいで、よく連絡がくるようになったんです。わたしも男の子ですから半分は嬉しいし、でも半分は困惑ですね。

「わたしをよく理解してくれるから」とその子はわたしに「併走」を望みます。おそらく孤独と共存できない人の普通の感情なんだと思うので拒否したり否定したりはしません。でも、結局走るのは「独り」の認識なので、「並走」は出来るけど「併走」はし続けられないよね、と最終的に思っちゃうんです。本音で孤独はいやですけど、身体はひとつになれない。

その子、どう走っていいかわからないし、走りたいけどバトン渡してくれる人が見つからなかったし、いずれにしても現在は「止まって」ました。それをなんとなく理解してあげることは出来ます。だってずっとその場所にいるから、分かるまで凝視できる。それで走るヒントも出せるかもしれません。

でも、恋愛にしても、結婚にしても、「併走」は結局幻想だし、鈍感で傲慢だと思っちゃうんですね。皮膚感覚ですけど。
相手に求めるって自分を分かったフリしてるってことの裏返しで、わたしも本音は幸せに「併走」し続けられたら楽だよね、とはカッコ付では思いますけど、わたしをわかって(自分ではわかってるから)っていう鈍感さと傲慢さが嫌だから、並走して転んだら手を貸しあおうね、ぐらいが限界です。

だから「並走」してる人しか、長く関係を継続できません。

「走る」という動作に対して、かっこつけて「俺は走り続けるぜ」とか「孤独なオレ最高」とか「おまえら俺の走りについてこい」とかそういうことではなくて、まあ淡淡と、全速で走るってシンプルなことしか出来ないっていう感じですか。だからクソバトンでも走るモチベーションは落ちない。(笑

昔、別のあるリスペクトする女の子に、あんたは「速く走り続けられる能力がある」というよりも「遅く歩くことが出来ない病」だと言われたことがあったことを思い出しました。

病気なら、まあいろいろ諦めもつきますね。(笑)

なんにせよ、もうしばらく「うんこ」「クソ」って言いません。品がなくて失礼しました。

お詫びに、またリクエストいただいた「オミズ音楽シリーズ」第3回「暗殺者」。