外様感覚

ダラリさんが、広場概念について、うまく短文でまとめてくれています(http://ameblo.jp/dararhythm/entry-10138908063.html)。

広場に「選ばれる」こと、先回私が書いた「オミズのお話」と偶然にも一緒ですけど、「選ばれる」状態に自分をしておくって、どういうことなんでしょうね。

それは「外様感覚」で生きること、なんでしょうかね。どこにいても「外様」「インディビジュアル」。つまり独りという現実。それは会社であってもなんとかサークルであっても家族であっても。独りである、という、おそらく人間にとってはこれ以上ない絶望感を受け入れること。どこでも「外様」であるという「現実」を受け入れることから、全ての行動は出発しているような気がします。

今朝買ったAERAの記事で、夏目漱石小泉今日子の記事が載っていました。まったく別のフロアにいる二人ですけど、わたしがその2つの記事から読み取る共通点は、私とは深さのレベルが全然違いますけど(笑)、それは二人とも「外様」の現実を受け入れている。その自分へのまなざしと同じように社会をアイロニカルに冷静に見て、自分の振る舞いを決めている、ということを記事から感じます。

夏目漱石は「余裕主義」とか言われて当時相当揶揄されてたそうで、小泉今日子も「余裕主義」ですけど、揶揄と裏腹の「羨望」が彼女には集まります。

いつも絶望的にインディビジュアルの外様感覚だと、「呼ばれる」縁を逆に大切にしますよね。いつどこに呼ばれてもいいように自分を開放しておく。何事も、だから「やってくる」感覚で、拒まず、追わない。それが、人には「余裕」と見える。

「人間はひとりじゃない」という幻想は大切なことで、だから何らか人間は生きることが出来るんですけど、幻想に溺れてそれを言うのか、絶望から見える風景としてそれを言うのか、で質は全く違います。幻想に溺れるから、現象は先鋭化して純白化して攻撃的になるんじゃないのかな。立ち位置の確認、の重要性。

いま、夏目漱石小泉今日子の織りなす言葉(と思想)を、私には関係のない「別の世界」にしない。みんな「別世界」にしたがるのは、自分の立ち位置(現実)を見るのがイヤだからでしょうけど。立ち位置を確認したら、大きい物語も小さい物語も関係なく、2次元でも3次元でも呼ばれたら身軽にほいほいと首突っ込んでみる。何かを勝手に学んで、自分の軸にフィードバックする。

そんな水の中で浮遊して、水の中の不安と孤独とニコニコと共存できる人のメッセージが、連休明けの朝から「リーマンズショック」と共に届く、いまはそんな世の中ですね。