シェアリングの中身

昨日の夜中、久しぶりにフラグメントフローアーズメンバーの主要メンバーの一人から連絡がありました。携帯にメールが来たんですけどね。

内容は、今日久しぶりに仕事で渋谷に行ったら、渋谷クアトロの建物が、最上階のクアトロライブスペース以外、全部BOOKOFFになっていた、という嘆きのメールでした。何でも109の前に巨大なヤマダ電機も出来る、とも。

私は返信しました。文化破壊の一つだけど、経済の状態が状態だから、仕方ないやね、と。経済と文化は、悲しいかなリンクしてしまいますからね。

なんでもないやり取りでしたけど、なんというか、いいやり取りでした。

昨日書き留めた「外様感覚」についても感想をいただいて、その友人は仕事上でバブル世代の上司に苦しめらてどうしようもなかった時があったんですけど、外様感覚を取り戻して(過度の甘えを排除して)立ち直ったんですって。「どうしてオレこんなにがんばってんのに、分かってくれないんだろう」という反感感情で、彼は追い詰められたんですね。

その外様感覚を取り戻すきっかけは、ソウルフラワーモノノケサミットのチンドン曲だったんだそうです。少数民族が奏でる音楽のミクスチャーだったその曲は、神戸大震災で苦しんだ人々への応援メッセージとして作られた曲だったそうですけど、それを聴いて、その曲が作られる動機と直接的でない知的でクールな表現方法、「ものを表現する」ということへの距離感と美感に感動して、元々その友人が持っている感覚を取り戻し、窮地から脱したんだそうです。

例えば、一口に「人を助ける」とか「応援する」とか言っても、人それぞれいろいろなやり方と対象との距離感があるわけです。人それぞれの立ち位置と距離感、というのを感じる想像力というのは、まず自分が立ち位置と距離感を意識して生きてないと、持つのは難しいわけで、その友人を改めてリスペクトしました。

私、「お祭り」ってあんまり好きではなくて、それはなぜなんだろうと思うと、「祭り」といううねりに人がみんな巻き込まれてしまって、本来人それぞれの盛り上がり方とか楽しみ方というのがあるはずなんだけど、それは放棄されて、何かに収束してしまう感じが「怖い」んですよね。(笑)

ディープハウスやアンダーグラウンドテクノの暗がりのクラブに行くのが好きで、ヒップホップやレゲエのクラブやディスコのキラキラ感があまり得意じゃないのは、人それぞれの楽しみ方を強要しない場所と、「楽しい」を収束させて強要する場所の違い、ですよね。その場所に、想像力があるか、ってなことですけど。

自分と、全ての物事との位置関係の心地よさを、私は「美感」という言葉で表現します。(過去ログで「美観」って変換されてるのがありますけど、全部「美感」の間違いです。ごめんなさい)

「問題意識」とか「ある状況」とか、そういうものを共有して何かを起こす、ということは祭りみたいに日常でも多々あるけど、「美感」を共有する、というのはなかなか大変で難儀なことです。世の多くの恋愛や夫婦だって、なかなか「美感」を共有する、というのは、至難の業ですよね。意識して、そういう人を常に探していないと、おそらく見つかり難いと思います。

私は、そのメールをくれた友人を含め、フラグメントフロアで拡散という「美感」を共有する人々と出会えたことを幸せに思うし、別にたまーにしか会ったり話したりしませんけど(笑)、美感が共有されている、ということで支えられる自分の尊厳とか自信とかって大きいし、救われてるなと、昨日改めて思ったのです。収入や仕事や生活、目に見えること、何かが産んだ結果ではなくて、それを支える人間の本質的な抽象的な部分での繋がりで、支え合い認め合う他人同士。

何かを共有して集まる、アクションが起こる、というと、得てして先鋭化して「それ以外」を排他して、悪意を撒き散らす集団へと変貌する可能性も高いわけですけど、「美感」の共有で集まっているということは、「和して同ぜず」の広場を作れる可能性は高いんだろうな、と思うんです。人それぞれの立ち位置や距離感に対しての想像力を忘れないからですね。

つまり、超左翼マガジン「ロスジェネ」を通読した感想でもあるのですけど。。