ヒューマン レンジ

「一億総評論家時代」とかいってですね。いろんな人がある事象に関して、ブログなんかでいろいろ物申す時代ですね。ほとんど読みません(っていうか読めませんよね(笑))皆さん、どんな気持ちで毎日文章を綴るのでしょうかね?素朴な疑問です。

この間、ここを見てくださる人から、毎日結構な分量のテクストをお書きですけど、仕事とか大丈夫なんですか?とか心配いただいてメールいただきました(笑)。

なので開示しておきますと、今私は企業人でマネジメントをしていますけど、きちんと自立されている企業の社長やご担当者さん、フリーの仕事人の方々に囲まれて仕事しているのですけど自分の時間は持てるほうですが、夜はほとんど外でどなたか利害関係のある方々と飲みますから、文章を書く時間は、朝とお昼、です。

朝は、子供の弁当作るのにご飯たくんですけど、5時に起きて5時半ぐらいまではボーっとコーヒー飲みながら書く時間があります。お昼は外で誰かと会食がある以外は、子供の弁当作った残りを持ってきてデスクで食べるので、食べながら息抜きに文章書くんですね。夜帰ってくるのは午前様も多いし、他のこともやりたいので、そこはどうしても書いておきたいことがある時以外は、書きません。

朝にせよ昼にせよ、すぐにはアップしないで半日寝かせますけど、だいたいそんなサイクルです。書かない時は起きれなかったときか、昼に用事がある時、です。基本的に。(笑

まあでも、こうやって書いていると、社員の労務管理に翻弄されている時に比べたら、本当に自分の時間増えましたねえ。今の時代、我々の世代(ロスジェネ)の中間管理職ってほんと経験則でキツイと思います。「バブル」と「ゆとり」に囲まれて。(笑)そんなこと高みの見物的に言うと、怒られちゃいますけど、ギリギリまでがんばったら、心が壊れる前になんとかするべき、と本当に思います。

閑話休題

文章、というのは慣れですけど、2.30分で書く「モノローグ」って、私にはちょうどいい分量ですけど、日課にしておくとよいことがたくさんあるんですよね。

だいたい溜まってきて読み直すと、自分が見えます。見えると次が考えられるってことになります。

ここを再開するときに「モノローグ」だと宣言(http://d.hatena.ne.jp/fraflo/20080717)していますけど、ここは基本的には、まずは「自分のため」に書いています。拡散でフラグメントフロアな頭なので、書き留めておかないと忘れてしまったりどっかにいってしまって2度と手元に戻ってこない、とかいうもので溢れちゃう難儀な人種ですので。

「大事なことを流さない」というのは、逆に言うと「本気になるときをきちんと見極める」ということに繋がっていくんです。先日雑誌を見ていたら、「本気で絶望して、本気で希望を持つ」というある人の表現に出会って、感動しました。

私はそれを「オレって最低・・」と「オレって最高!」という言葉で表現します。私も「絶望」と「希望」の幅で生きている人間になりたいと思ってますけど、「絶望」と「希望」の幅をギリギリまで持っている人の魅力というのは筆舌に尽くしがたい味わいがあります。

自分の「限界」を知り尽くしている人ほど、「挑戦」できるというロジックと同じですよね。

若かりし10代20代の頃、リアルでもネット上でも、いろいろな表現をしては人の評価を過剰に気にしていました。結構な反応をいただいて、褒められたり誹謗中傷を受けたり、ストーカーにあったり(笑)いろいろありましたけど、それはそれでいい経験でした。しかし、内容を見ると他人の目ばかりを意識している(まあそれが若さですけども)、ちょっと見苦しいものも多々あるんですね。

ある人から言わせると、表現を人に投げつけている感じがあるんだそうですが、今は「そっと置いていく」感じになっているという感想をいただいています。
つまりは、人が見る(パブリシティ)と自分が見る(プライベート)、つまり2つのPのバランスをとって、過剰に他人の目を意識する無理はしないけど、自分で読む価値がない、と思うものも惰性では書くんじゃ意味がない(から考える)、というような感覚を訓練するにはブログってとてもいい媒体だよね、と思います。

そうやって毎日日課としてモノローグを書くと、うわーオレ最低、って時、あっ俺普通でつまんねえじゃんって時、おおっオレ最高!って時がぐるぐると毎日必ずやってくる。人からレスポンスがあれば、その感情は増幅する。だから表現(自分の内面を身体の外に出す)というのは「し続ける」ことにこそ意味があると思います。それで「ヒューマンレンジ」つまり幅がちょっとつづ広がっていく。

何もしないというのは、「希望」も「絶望」もない。そういった感情の起伏は、生死を彷徨うような大きな出来事で起こるだけではなくて、毎日の生活の中での小さいことの積み重ねから起こることだってあるんですよね。

現代は、情報の束こそが主体の本質である、という言葉が身にしみます。