鮎川誠さんを偲ぶ

海外国内、音楽関係者の訃報が多すぎて、レクイエム続く1年のスタートですね。

鮎川誠さんがお亡くなりになられたのですが、今朝の朝日新聞では社会面に割と大きな扱いを受けてました。朝5時のNHKのニュースでも取り扱っていて、あたしはシナロケの世代ではないので、故人に失礼ですが、正直少し意外でした。

新聞の評伝には「サンハウス」から「めんたいロックムーブメント」そして「シーナ&ロケッツ」までが書かれているのですが、おおよそサンハウスやめんたいロックが全国紙の社会面に書かれるほど一般性があるとは思えず、記者にお好きな人がいるんでしょうね。

幸宏さんに続き鮎川誠さんまで、細野師匠、がっくりされていることとお察し申し上げます。

細野さんの回りに集まってくる人の中に、実は細野さんと同じタイプ、自分の気まぐれ感性のままに音楽を作る人は少なくて、ひとつのことを貫いて、70年代の初期衝動をそのままやり続けているという、細野さんの対として存在しているような人が多い気がします。久保田真琴、鮎川誠、忌野清志郎、そして大瀧詠一山下達郎

あたしはよく細野さんを長嶋茂雄に例えて、大瀧さんを野村克也に例えるんですが(笑 数年前の該当つぶやきはこちら→)

 

みんな細野さんの天才性を観て、自分の行くべき道を定めたんだと思います。やはり戦後の日本(いやもしかしたら世界的にも)大衆音楽史は細野さんを一つの軸に語るというのが、後世の歴史家のひとつの方法論になるんじゃないですかね。(笑)

同じく天才と言われた、故人となった希代のキーボディストマルチ音楽家佐藤博さんと細野さんの対談で、ギタリストの山岸潤史さんに触れるくだりが残されています。お二人とも(自分たちとは違う在り方を追求した)山岸さんに敬意を表し、ウエストロードブルースバンド⇒ソーバットレビューの後、単身ニューオーリンズに渡り、ニューオーリンズのブルースギタリストとしてずっと道を掘り下げ、名を上げた山岸さんに対して「ああいう在り方は自分にはできない」とおっしゃっていました。

70年代初頭の、東京のシーン、名古屋のシーン、大阪京都のシーン、広島のシーン、そして鮎川さんのいた博多のシーン、それぞれでGS後の日本語ロック黎明期が勃興するわけですが、あたしは90年代初頭のアンダーグラウンドテクノムーブメントが「東京、大阪、福岡」で同時多発に勃興して、世界中の国と都市名で結びつく音楽シーンを「新しい」と思っていましたが、なんのなんの、70年代初頭に都市文化は勃興し、70年代中盤に東京はニューオーリンズという地域性と結びつき、「ナイアガラムーン」や「泰安洋行」の名盤を生み出し、山岸さんのような人をニューオーリンズに送り出すという、そういう歴史の繰り返しだったことに改めて気づかされますね。

 

鮎川誠さんは三姉妹の父親であるところはあたしとの共通点です。身近に3姉妹の父親というのを数人知っていますが、人間的な共通点というのがあり、逆に男子3人いる父親も数人知っていますが、こっちはかなり大きな性質の違いもあり、どっちも酒の肴にするには面白い話なのですが、それはまだ後日。(笑)