川勝さんの命日の次の日に石原慎太郎が亡くなる因果について思いを馳せる

石原慎太郎が亡くなったそうです。いつものリスペクトを含むレクイエムとは言えないんですけど、思いつくまま書き残しておきます。

あたしは日本の近代以降の若者文化やポップカルチャーの系譜を学ぶことを30年以上のライフワークとしてきましたので、石原慎太郎といえば、まずは「太陽の季節」であり「太陽族」ということになります。

昭和30年初頭に自分用のヨットが欲しいなどとのたまう若者が既に存在していたことを歴史の記録として残したのは貴重ですし(笑)、大瀧さんは戦後の文化史を流れとして捉える中で、戦後の日本を悪くした最初のムーブメントは太陽族ではないのかと仮説を立てていたと聞きますが、それはなんとなく腑に落ちる仮説のようにも思っています。同時代には、例えば加賀まり子の初主演映画「月曜日のユカ」などもありますが、ジェームスディーンの「理由なき反抗」やプレスリーの登場などと軌を一にした動きとはいえ、いま見返してもなかなか刺激的でデカダンな若者文化が勃興するのが50年代後半ではあります。

その時代に社会を斜めから穴をあけるような存在だった石原慎太郎や(クレイジーキャッツを通じた)青島幸雄がその後政治家になるという流れはリアルタイムでないあたしには理路はよく分からないし、青島→石原とリレーされる都政の因果も今考えると面白いなと思うんですけども、政治家石原慎太郎、特に都知事石原慎太郎時代は、あたしはリアルタイムなので、いろいろな思い出があります。

あたしが渋谷や下北沢にレコードやCDを買いにいくようになったのは高校生の頃だから1990年代初頭、渋谷系と俗に言われる文化潮流の最中であり、宇田川町の雑居ビル2階にあったCISCOに田舎者気配を必死に消して、ドキドキしながら階段を上がり、レコードを買った記憶がありますが、渋谷が面白かったのはあたしの体感では94年頃までだったと思います。その後渋谷はルーズソックスをはいた女子高生と、それを付け狙うパリピ男子に埋もれてしまい、渋谷から足が遠のき、新宿に癒され始めます。

時を同じくして、新宿歌舞伎町にリキッドルームがオープンし、98年の椎名林檎の登場までの数年間で、竹の子族と西武カルチャーのおかげで78年頃に新宿から渋谷に移動した文化潮流の主導権は、20年かけて新宿に戻っていくことになるわけですが、まさにこの時に都知事だったのが青島幸雄であり、その後に都知事になるのが石原慎太郎でした。

石原都政は徹底的な歌舞伎町を初めとした繁華街の浄化を行い(時同じくして、中田横浜市長は黄金町の浄化を始めました)歌舞伎町はどんどんトゲを抜かれていきました。あたしは今この時期が、もしかしたら昭和の怪しい繁華街風情の最後になるかもしれないと思い、危うい気配がかろうじて残る新宿に居を移すのが2000年であります。

同じ時期に「歌舞伎町に住む」をブランドにして社会に颯爽と登場してきたのがジャズミュージシャンの菊地成孔さんでありまして、その菊地さんにシンクロニシティを密かに感じていたわけなんですが、同じ時期に、畑違いのフィールドからその菊地さんにガツガツ近寄っていったのが、10年前に亡くなったポップカルチャーの水先案内人、エディターの川勝正幸さんでした。川勝さんは上述の90年代初頭の渋谷、の文化牽引者であったわけで、川勝さんもまた、渋谷から新宿に逃げてきたんではなかろうかと思います。(笑)

あたしは2010年にツイッターを始めましたが、カルチャー全般、言論全般の人たちを次々フォローしていく中に、もちろん川勝さんのアカウントもあるわけですが、死後10年経っても川勝さんのアカウントは残されておりまして、その川勝さんのツイッターアカウントプロフィールには、こう書いてあります。

座右の銘石原慎太郎を会員にするクラブには入りたくない。

(笑)つまり、街を愛し、歴史を愛し、文化を愛する一部の人たちが、当時の石原都政に感じていたものがなんだったのか、ここまで書いてきた、渋谷から新宿へ→菊地成孔の登場→川勝正幸さんと菊地さんの邂逅、にいたる流れを見た時に、川勝さんの座右の銘の意味が良く分かるという、そういう構造になっていると思います。

この浄化の完了をもって、ついぞ街が文化潮流を牽引することは無くなりました。インターネットの登場もあったかもしれませんし、街がつまらなくなったのは石原都政だけのせいでもないことは事実ですけど、それにしてもあの頃の変化はすさまじかったことは、街と文化を当時浴びまくっていた人間にしか分からないこともあるのかもしれません。

そして、最後に、10年前の川勝さんの命日(1月31日)の次の日に石原慎太郎が命日を並べるという、その因果について、個人的には思いを馳せずにはいられないのであり、ここにそのことを記しておきたいと思います。