みたびレクイエム 小林亜星を偲ぶ~山の手の若大将と下町の頑固おやじと慶応ボーイ~

先日伊藤アキラさんが亡くなったと思ったら、続いて小林亜星さんご逝去の報。みたびレクイエム。
あたしは寺内貫太郎は生まれてないので観てなく(記事見てると最初高木ブーにオファーするも多忙で断られたとあって驚き笑)、小林亜星というと「クイズ ヒントでピント」の人、というイメージが最初に来るけども、数多のCMソング、数多のアニメ主題歌、ピンポンパン体操、など、幼少時について音楽的に「亜星ファシズム」の中にいたといっても過言ではないと思います。笑
 
亜星さんは60年安保世代で、同世代の加山雄三さんと同じ慶応(しかも亜星さんは医学部)で、クラシックの服部正センセに師事し(服部さんはラジオ体操第一の作曲者だから、ピンポンパン体操を亜星さん作るのは必然笑)、60年代の「まだ低い文化階層だった」テレビ界およびテレビCM界で60年代にCMソングを作り、その地位向上に貢献して、70年代に寺内貫太郎と「北の宿から」でその地位を不動のものにしたというのが流れのようですけども、やはり後発ナイアガラ―としては笑、大瀧さんや達郎さんの旦那として君臨する朝妻一郎率いるフジパシフィックを敵に回し、服部克久さんが作った「記念樹」が、自作のブリジストンCMソング「どこまでも行こう」の盗作であると主張して勝訴した「記念樹事件」の印象の悪さがどうも引っかかってしまところも否めません。
 
サブカルチャー誕生前夜の60年安保世代である亜星さんが、当時金も時間も持っていた都内有名私立出のご子息ご令嬢が牽引した若者文化(東京都市文化)の筆頭として出てきて、まあその、容姿も含めて加山さんにコンプレックスを持って反骨的にやってきたことは想像に難くなく、であるからして裏方で充分すぎるぐらい食えるところ、寺内貫太郎含めテレビタレントとして出ていくのではなかったか、あたしはそう思いますが、やはりそういうところの「嫉妬心」みたいなものが「記念樹事件」に終息し、いまでもこう老若男女に愛され、桑田佳祐夫妻と山下達郎夫妻が誕生会を主催するほど若手に生きる伝説として愛され続ける加山雄三との晩年の在り方の違いを見るに、やはりあたしは、亜星さんはどっか無理していたんじゃないかと思わなくもないのです。それは筒美京平センセの在り方とも見事な対比を見せているとも思います。京平センセにも無理がない。
 
とはいえ、亜星ファシズムの中で育った身としては、その影響は無視できないどころか、ひみつのアッコちゃんから魔法使いサリーからガッチャマンからコンバトラーVから、そりゃもう、3歳ぐらいまでの根っこも根っこのところを作っていただきまして、大変感謝でございます。ご冥福をお祈りいたします。
 
※ちなみにしかし、一番影響を受けたアニメ主題歌はアレンジも含めて「ハクション大魔王の歌」(市川昭介センセ)でございます。笑