年明けからある意味覚悟していた坂本龍一さん(以下教授)の訃報です。レクイエム残しておきたいと思います。
先日、ライブハウスロフトの創始者平野さんのロフト史を読んでましたが、教授は第一号店となる(千歳)烏山ロフト(ただこれはライブハウスではなくて音楽喫茶&BAR)の常連で、近所の音大の女学生のレポートを代筆する代わりに酒をご馳走になっていたという逸話が残されてます。それが1973年頃ですので、その同じころ、達郎さんは大瀧詠一さんに呼ばれてはっぴいえんど一味に加わっており、その後、晴れてライブハウスとして開店する荻窪ロフトと次の西荻ロフトあたりで教授と達郎さんは1974年頃に出会い、その後達郎さんが大瀧さんに教授を紹介し、そこから教授がティンパン集団に入っていくという、どうもその流れが正史のようです。
ここまでの前フリを書いたのは、教授のユニークさはこの出自にあると、あたしは思っているからです。
だから、上述のように、達郎さんと大瀧さんを介して、ティンパンに加わっていくという流れも納得という感じですが、達郎さんは竹早高校、教授は新宿高校、ふたりとも政治の季節を高校時代に直接的に体感しているわけで、同時期に、そういう政治と若者の喧騒を横目に、余暇と余金の私立高校のティンパン集団は、軽井沢で夏休中ダンパで演奏していたってんですから、そのコントラスト。特に達郎さんと教授については、後でよくティンパンに合流したなという感じがしますが、70年代後半の活動を見ると、やっぱり達郎さんと教授、達郎さんと大瀧さん、教授と大瀧さんの活動というのは、ある意味ティンパンアレーの側面史として、少しやっぱりエスカレーター私立の皆さんとは異質なのがよく分かります。
お二人の素直さ、無理のなさ、自己相対化と俯瞰の知性、いわば「自分を含む風景をも俯瞰できる」という知性の存在こそが、1970年以降の日本の大衆音楽のレベルを上げるのにどれほど貢献したのか、このラジオを聞きながら(もう100回ぐらい聞いてますが(笑))改めて思うのであります。