労音とヤマハと若者文化の栄枯盛衰史概略草稿

昨日SNSで旧い友人と70年代歌謡とヤマハについて話していたので、ここに改めて私見概略を朝の移動中にまとめておきました。その友人、ヘルニアの手術して入院療養中とのこと、お見舞い代わり、そしてお暇潰しにどうぞ。
 
60年代からヤマハ団塊世代を狙った音楽教室事業を開始して、それが団塊世代の成長と共に拡大し、共産党系譜の労音歌声喫茶文化や、その後のフォークロック勢に勤労会館を開放して取り込んだように、軽音楽系の若者をヤマハは取り込んで一大サロンを形成します。(ヤマハの戦略は共産党の若者取込戦略をモデルにした、という仮説も立ちます)
 
その1つの結実が70年代前半にヤマハが出版した雑誌「ライトミュージック」で、そこの編集部には70年代前半に錚々たる尖った才能が集まっていました。S-KENさんの自伝によると
松本隆細野晴臣大瀧詠一、山岸潤史、伊藤銀次矢野誠林立夫、和田博己、林哲司、荻田光雄
がいつもいたというんだから、凄い状況です。
 
しかしこの気鋭の若者が集うサロンはすぐに終わってしまいます。そこを書いてる人がいないので想像ですが、おそらく(先日もちらっと書きましたが)まだ残存していた旦那衆と違い、ヤマハはカネも出すがクチも出す、ということで、文化に精通しカネは出すがクチは出さない旦那衆に散ってしまうのです。細野さんはアルファの村井邦彦さんやキャンティ川添象郎さんのもとへ、大瀧さんはオンアソシエイツの大森昭男さんや朝妻一郎さんのもとへ、といった具合に。
 
ここで歴史のifで、ヤマハがもし旦那衆の役割を担っていたら…、と考えてみるんですが、同じように、70年代以降の共産党の凋落を見ればおそらくそれはあり得なかったろうと思います。(出発も真似てると思うので終わりも同じ)
 
しかしその中でもS-KENさんは「ヤマハの特派員」としてニューヨークに駐在し、ヤマハの金で一番スリリングだった70年代中盤のニューヨークに行きます。そしてレゲエ、サルサ、パンクと吸収して70年代後半に日本に戻って東京ロッカーズのムーブメントを作るわけですが、やはり77年頃に、途中でヤマハとは縁を切っています。
 
この77年に何があったかというと、「ドラッグによるミュージシャンの大量捕獲逮捕」があります。あたしはここでヤマハは鋭角な才能たちと距離を更に置きにいったと想像しています。S-KENさんもその流れの1つで、その後ヤマハはお行儀のよい、優等生的で教科書的な体質に更に拍車がかかるようになったのではと推測しています。(まあ財団法人で音楽振興会という体質上、仕方ないと思うんですけどね。)
 
気鋭の才能の70年代後半からのヤマハ離れと呼応するように、団塊世代の才能たちを中心とする歌謡界の革命と繁栄が展開されていきます。上述した編集部にいたメンバーが才能を発揮して歌謡界は色トリドリとなっていく皮肉な展開になっていきます。
 
そうして表裏、清濁ある才能ではなく、無難で優等生的なものだけで運営されるヤマハになりますが、70年代後半はまだその前までの「先鋭サロン的」な空気の名残があったので、継続開催されていたポプコンやEASTWESTではサザンやカシオペアやシャネルズやBoowyといった才能をギリギリ発掘する場として機能し、80年代になってその名残は完全に消え、ヤンキー文化流行に乗って出したのがアラジン、ニューロマンティクスを中途半端に解釈して出したのがTOM★CAT、という(笑)、完全に「気鋭の才能発掘の場」はソニーに場が移っていくわけです。
 
あたしはアラジンやTOM★CAT一発屋的に売れてしまったが故のヤマハの長期的視点での不幸があり、その不幸は83年のつま恋のガス爆発事故に象徴されるではと思います。
 
そして、そのヤマハの窮地を献身的に救った「中島みゆき」の存在についても…(以下省略)
 
というような(上記はあくまであたしの推論ですが)ヤマハの60年代~80年代の栄枯盛衰を調査研究してルポしてほしいのですが、どなたもやってらっしゃらないようなので、誰かに会社を引き継いだら、老後の楽しみであたしがやろうと思っています。(笑)
 
でもね、うちら世代でエレクトーンやピアノをヤマハで習った人は、その80年代の「カドが取れたヤマハ」カルチャーだったんだということを後から振り返ると、ああなるほど、と思うこと、たくさんあると思いますけどね。
 
時間です。