この2か月間、周囲の過酷な現実を散々目にし耳にして、落ち込んだり立ち直ったりしていますが、週末連れ合いと散歩している時に、新築で2年も経っていないぐらいの家に「売り家」の看板が吊り下げられていて、なんか見過ごせない「ザワツキ」がありました。
これまでもバブル崩壊、リーマンショック、東日本大震災後にも同様の光景は目にしていたし、90年代中盤に軽井沢に行った時のバブル崩壊による荒廃を目にしている二人ではあるのですが、今回のこの光景はまったく別の感慨をもたらすなと話してました。コロナ禍渦中、今までで一番「精神的にキタ」光景でした。
もちろんそれが「コロナ禍によって経済的困窮に陥ってローンが払えなくなった」のか「在宅勤務の長期化で家庭不和になった」のか「そもそもコロナ関係なく何らかの事情で家を手放した」のか、実態はまったく分からないわけですけども、建って間もない家が売りに出されるという事実にいろんな想像を巡しつつ「こういう光景が日常化する恐怖」が二人を覆ったと思います。
あたしは結婚して18年で「日本的持家プレッシャー」みたいなものには何度か出くわしています。「家を持って一人前」という同調圧力みたいなもの。だけどあたしは「なんとなくイヤだから」その同調圧力を無視して飄々と周囲の声は聴かないフリして(笑)いまに至ります。
同調圧力は周囲からだけではなくて、連れ合いはあたしの「なんとなくイヤ」に付き合ってくれますが、ムスメかたちからは「友達の新しい家うらやましい」とかって婉曲にプレッシャーかけてくる(×3人)わけですが、それもどこ吹く風で「自分が結婚したら建てたらいいじゃん」と言ってきました。(笑)
この日本人の持家信仰はどこから来るのか、はずっと不思議で、それを「なんとなくイヤ」としている自分のことも知りたいので定期的にこの話は観察して勉強してきました。
持家信仰というのは60年代後半の団塊世代のニューファミリー需要前に政策的に行われてきたこと(歴史は浅いこと)、バブルがはじけ平成不況になっても「持家と賃貸、どっちが得?」といった語り口で持家信仰を維持してきたこと、それがリーマンショックを境に「持ち家買うなんで正気の沙汰ではない」的な論調に10年でいつの間にか一気に傾いたこと、それでも市場には惰性があり、どんどん家は建てられ、まだまだ買う人がいるという現実を散歩しながら見てきたこと。
そう流れてきた世の中が、今回のコロナ禍で一気に価値転換を起こして「持家信仰」を日本から消すことになるだろう、その象徴として、あたしは週末に、ピカピカの新築物件から希望を持って入った家族の消えた気配と、貼ってあった「売り家」の看板を見て感じたのかもしれません。
一節には「ローンが払えなくなった」という金融機関への相談件数が2月→3月→4月となるについて加速度的に増加しているそうです。あたしが20年前に感じた「なんとなくイヤだから」の、なんとなく、が具体化してしまいました。
その「なんとなくイヤ」の発祥は、先日エントリした「コロナ禍に考える平成史」に書きました。自分の感覚を信じ、流れとご縁に任せてその場その場を一生懸命生きてきましたが、このようにいろんなことが合流してくる時がまさか来るとは思ってもみませんでした。
あらゆる価値が毎日黒に変わったり白に変わったり、まさに動乱の日常となってきました。ここで重心低く、謙虚に、誠実に、毎日と向き合うこと、自分が信じてきたことをブラさずに貫くことの重要性を、改めて認識する光景でした。
備忘です。