コロナ禍に考える平成史

ちょうど末っ子が小学校中学年になった去年ぐらいから、夫婦で時間が余るようになったんで、アラフォーの健康維持目的もあって、誘って散歩するようになりまして。散歩っていっても2万歩ぐらい歩くんで長いんですけども。

うちは結婚して18年、出逢いは1994年ですから、もう25年以上の付き合いになりますが、日曜日に散歩しながらコロナ禍のあれこれを情報交換していて、この25年を振り返る、みたいな話になりまして、いろいろ思うところがありました。あたしと連れ合いの25年は、そのまんま平成史ですからね。

平成の最初の5年を「平成前史」と考えれば94年からが平成本史で、その後95年のオウム真理教関係、その後の阪神淡路大震災、そして98年から始まる監視社会化強化という時代の空気を決定づけたという流れで考えると、その当時考えていたのは「これからどんな時代が来るのだろうか」という、それは「夢や希望」ではなく「危機と絶望」という、もちろんそういう視点からの共通の思いがありました。もちろんそれはマクロの視点で、ミクロ(夫婦や家族の時間)という話とは全く別のお話なんですが。

95年~98年頃に感じていた危機感を克明に思い出すのは難しいんですけども、とにかく学生でろくに働きもしなかったので(連れ合いには散々貢いだと文句言われていますが笑)時間だけはあり、イマ何が起きているのか、これから何が起ころうとしているのかを考えたことは覚えています。そのためにしたことは大量の読書で、まず自分を知る→社会を知る→いま起きていることを知る→未来を考える、というスジを繰り返して3年ぐらい生きていたように記憶しています。

98年にあたしは社会に出るわけですが、社会に出る時に考えたのはなるべく大きなモノに頼らず生きていけるようにする、でした。世の中でも「大きな政府」と「小さな政府」どちらがいいか、みたいな議論が起き出した頃だったと思います。

その後日本は「小さな政府」路線で新自由主義ネオリベ)を取りいれ、大量の非正規雇用を生み出して、市場の強者と弱者を生み出し、勝ち組負け組という格差社会が完成していく20年に向かうわけですけどもね。

今になって振り返ってみると、その路線が間違っていたのか、ではなくて、その社会システムを運用していく側(政治家や官僚や企業経営者)の倫理観が無かったことが、最近の諸々を支配しているなということを思いますね。自分にヒトや社会を動かす能力がある人が損得の壁を超えないと、いまの日本社会みたいなことになる。


それは50年前の政治の挫折、40年前からの消費社会化、に端を発する息の長い教育と文化の問題だとツイッターやってたころに散々つぶやいてきたんですが、このコロナ禍でも、全ての問題の本質はそこにあるという思いを強化しています。やっぱりお勉強はできるけど、自立を志す市民教育というのが、この50年、自分でそのことに気づく以外には、ほとんど獲得する方法がなかったんではなかろうか、と。

うち10代の娘3人いますけども、子育て現場界隈見ていても、いまだにその問題は放置されていて、とにかく競争に負けるな、信頼できるのは地位と名誉とカネだ、友達だの恋愛だの学校行事だのかまってないでとにかく勉強せえ、という人いっぱい見ますけどね。(笑)

最近の新聞の論考で知ったんですけど、どっかの大学の卒業式の謝辞を述べた学生(だから首席ですよね)が「がんばったのは自分で謝辞は自分に対して述べる」といったことを言ったとかいう話が出てましたが(笑)、結局40年「そういう人材」が多く社会システムの運用側に入ってしまって自己利益の確定に奔走するわけなんで、それは社会が悪くなるのは当たり前だな、と。

自分に力をつけるまで(あたしの見立てでは30歳~35歳まで)は自分のことで精いっぱいでもいいと思いますけど、力が(運よく)ついて、周りを見る余裕が出たら、自分のリソースを周囲の幸せのために使う、そのことによって善意が周り、それが環境を徐々に変えていく、あたしは運よくそのサイクルに乗れて40歳を迎え、ささやかではあるけども、いまはミクロ的には、自分のステークフォルダの範囲内に理不尽や不条理はほぼないといっていい状態になっている。

この25年を考えた時に、1995年に痛烈に感じた社会変動の機運、そこで圧倒的に自分に「考える材料(素地)が足らない」と感じて勉強し直したこと、そこで得た先人賢者の智慧と自立の精神、円熟の余裕、そして若かりしあたしが思った「そういう枯れた大人、余裕余白のある大人になりたい」というささやかな夢、が今までを支えてきたんだということ、そのささやかな夢を持った時点が、運命の分かれ道だったと現時点では思います。

このパンデミック社会で、自立した市民を目指さない人たちは自分の損得の確定に奔走して分断が更に進み、孤立した人たちは犯罪に走ったり自殺に走ったりするでしょう。政府は犯罪率や自殺率が実際に数字として上がってこないと、事の危機に気づかないかもしれません。それぐらい日本の上層部の感情の劣化は激しい。

その恐ろしさは25年前からあって、あたしの危機感はその時とイマと何も変わっていない、連れ合いとは、この25年をそう総括して散歩を終えました。