新型肺炎ウイルス騒動最中に橋本治を読み直して考えること

昨年秋の消費増税がボディーブローのように効いているところに今回の新型ウイルスがきて、製造運輸飲食エンタメ観光宿泊なんかを中心に大変なことになっています。良かったものが悪くなった、ということなら持ちこたえることもできるわけだけど、弱っているところに更なる打撃なので、致命傷になりかねないと思います。

当社は3年前に東京オリンピック招致が決まった瞬間に「オリンピックの後に大不況が来る」と瞬間的に思って、財務的にも営業的にも業務的にも各方面備えてきましたのでイマのところ好調を維持しています。維持というか、ここ数年で一番いい状態といってもいいと思います。

その話を人に話すと「どうしてオリンピック後に不況がくると思ったのか」と聞く人が結構多いことに驚くんですけど、そう思う人と思わない人の差について考えてしまいます。
だって「祭りのあと」にくるものは昔から決まっているわけですし、祭りをやる動機は「祭りでもやらないと持たない」ということが明確だったからなわけですけど、そう考えない人は「祭りで好景気になって、それが終わればまた次の祭りをやればいい」ぐらいに思っているということが話していると分かってきます。

この「祭りベース」と「祭りのあとベース」の違いは世代かもなあと思うのですが、あたしゃロスジェネですから基本社会や経営については「祭りのあと(不況)ベース」で物事を組み立てるということは確実にあって、不況の中を生き抜いてきたという自信はどっかあるかなとは思います。さすがに失われた20年で、社会はずっと右肩上がりなんだと素朴に信じる人は皆無になりましたけども。。

さて、そんな祭りベースの単純楽観論者(転じて、自分では難しいこと、苦しいこと、辛い事からは目を背けて誰かがなんとかしてくれるのを待っている人)とそうでない人=悲観的楽観論者が、今回のこのコロナ騒動で更に分断が進んでいるように見えます。

前のログに書きましたけど「何かが終われば何かが始まる」「絶望からしか見えない景色もある」というのが悲観論的楽観論者の真髄なんですけども、今までずーっと単純楽観論者を味方につけてきた現政権も、今回の世界的な騒動で同じこと(隠す、誤魔化す、居直る、話をすり替える)をやってると世界から総スカンをくらって、いよいよな気配がしてきました。

2008年のリーマンショックの後に、故橋本治センセが「大不況には本を読む」という著書を出してまして、オリンピック近づいたら読もうと思って本棚の前のほうに出しておいたんですけど、半年前倒しで読み直すことになりました。思いっきりサマリすると「景気に左右されない在り方とは何か」ということを書いている本で、いまでもまったく通用します。

というか橋本センセの本はいつも本質的で時代を選びませんので、それはポップスが普遍性を得ているとかいうことと同じ話で「景気に左右されない」というのは「時代に左右されない」ということと同じことなんだということが良く分かるのですが、景気や時代に左右されない在り方は何ですか?という質問をずっと自分にし続けること、それを探して毎日営みを積み重ねていくことによってでしか、在り方は分からない。

そう思って生きるか生きないかの3年、30年の積み重ねが生む差と分断。これはやっぱり、野暮さが大手を振るう社会に粋な文化を取り戻すのに3代かかるという数多の諸説に、あたしは賛同します。