ツイッター半年やめて思うこと、そしてAI美空ひばりと山下達郎と冒涜の意味

ご無沙汰しています。ツイッターやめてから半年強が経過しました。やっぱり虫の知らせのようなもんだったのかもしれませんが、その後、あたしがツイッター始める動機にもなった批評家の東浩紀さんも止めたようです。
その後のあたしといえば、公私共に好調で、ますます良く飲み、良く食べ、良く寝て、良くしゃべり、良く仕事しています。ツイッターを止めたことで大きいのは「誰かにウケるために考える」という「無意識に入っている余分な力」が抜けたことで、思考にシャープさが戻ってきたように思います。

一方社会はというと、連日混迷を極めるニュースが続き日本社会は劣化の一途をたどっていて、10月の消費税増税以降、山形の百貨店の倒産に象徴されるように、特に地方の体力が日に日に奪われているようですが、あたしがオフィスを構える東京三大繁華街でも、飲食店の閉店が目立ちます。

そしてその火に油を注ぐのが、「共感過剰」と「過度に肥大し続ける承認欲求」の2本柱が渦巻くSNSということになっているというのが、この半年ネットを離れてみて思う、あたしの所感です。

半年ツイッター離れてみると、SNS依存はギャンブル依存と同じ構造だなとつくづく思います。パチンコに例えれば「いいね=大当たり」「RT=確変」みたいなもので(苦笑)、自分ではそういうつもりでやってなくても、そういう依存構造の中に気づくと組み込まれていってしまうというのが、誰かが作ったプラットフォームの上で動く時に恐ろしいところで、それもギャンブルと同じです。上述した「知らない間に誰かにウケようと思って思考している」というのは「知らない間に当たりを求めてお金をつぎ込んでいる」との構造が同じなのでした。

ギャンブルと違うのは金銭取引がないというところなんですが、最近は共感過剰と承認欲求満たしのためにヒトの経済活動を平気で邪魔してるそうで、それだったらカネの切れ目は縁の切れ目のほうがよほどスッキリしていて、感情のもつれは末代まで残るわけですから、恐ろしい限りです。

とはいえ、お金が続かないのと同じで無理も続かないという観点から、今はいろんなことが末期症状といえて、この状況が永劫続くとは思いません。

昔誰かが「絶望からしか見えない景色もある」と言っていましたが、一旦絶望の淵に立った後、またそこから何かが立ち上がる。いまの状況をよく洞察しながら、その時のために力を蓄える、ということが、いまあたしが取りたい佇まいなんだということに、ツイッター止めて半年で「そうか、これだったか」と後から理解しているところです。

この半年で3回だけ呟きたくなったことがありました。それはガーションキングスレー、アンナカリーナ、坪内祐三野村克也、アンドリューウェザオールなどの訃報に触れた時(呟きも弔いとの観点から)、紅白でAI美空ひばりを観た時(苦笑)、そして、そのAI美空ひばりを死者への冒涜ですと一喝した山下達郎に賛否が集まった時、の3回でした。

「どうしてみんな最後達郎さんに頼るんだろう。大衆芸能界の張本勲じゃないんだから。」と、きっとツイッターやっていたらつぶやいたと思います。(苦笑)

そんでこう続けます。
美空ひばりの復活や、それに伴うファンの感慨を否定しているわけじゃないんですよね。優れた作り手や歌い手は、自分の作品が「名無し歌」として後世ずっと歌い継がれる普遍性を獲得しようと思ってやってるんであって、個人の地位名声名誉など目先の損得と承認欲求だけを求めてやってるんじゃない、美空ひばりの歌は「歌い継ぐ」ことこそが弔いであって、今回の動きはそれを理解しておらず、真逆の発想で「美空ひばりという有名性を復活させる」ことが、どれだけそういう優れた音楽家の想いとかけ離れているものか、ということを達郎さんは言いたかったのではないでしょうかね、と。

と、まあ、半年で3回も呟けば本来満足だったものが、知らぬうちに毎日呟かないと気が済まなくなっていた、。ということに気づき、恐れおののいた、というレポートでした。(苦笑)