自己肯定の連鎖

わたしには息子はいませんが、息子をやさしくてオトコらしい人間になって欲しいと願う母親は多いですよね。
でも願いが強ければ強いほど、その夢はかなわないような気がします。

なぜならオトコらしい、を母親が実践するのが難しいからで、「オトコらしい」を母親から(コトバで)学ぶしか術がないような環境に社会がなっているからだと考えるからです。

昨日書きましたが、子供は親や周囲の大人の真似事から何かを始めます。当然オトコらしさやオンナらしさも、真似事から入るでしょう。
今は、親以外の、子供が密接に参照できるオトナ、が減っている、という前提で、そう思います。

だから親が好むものも子供は好み、親が嫌いなものは子供も嫌いという相似形から子供はスタートするのでしょうけどもね。だってそのほうが、親が喜ぶと思うからですね。子供の生存戦略です。

親がそういう子供を認めてあげれば、子供はそのまま育つでしょうか。(良くも悪くも)親が生活で奏でているリズムと振る舞いを身体にしみこませていく。

しかし、そんな子供を親が認めてあげないとき、子供はどうなるでしょう。左利き矯正のように、親の真似事をしたら咎められる。そうすると、どうやったら親が喜んでくれるか分からず、生存戦略プログラムが破壊されちゃいます。

つまりですね、子供はそのまま育てばよい、ということは、親自身が自分自身を肯定的に受け止めているということに他ならないと思うのですね。親の真似をする子供をそのまま認めてあげるということは、自分を認めていることに等しいし、子供を否定すれば、自分を否定することに他ならない、と。

だから、自己肯定の源泉は、きっとその親や、そのまた親から、きっと受け継がれていて、「わたしは最終的には自分を肯定的に受け止めてます」という血統というのは、あるのだと思います。苅谷教授の教育論の中の「子供の学力は母親の学歴に比例する」とかいう説は、このことの一部ではないかと思います。

「わたし自分が好きです」に学歴は関係ないです。だから、「わたし自分が嫌い・・だから子供はいい教育を施して立派になってもらわなきゃ」と思うからおかしくなるし、別に勉強なんてどうでもいいわーで子供放ってても、自分肯定派の親に育つ子供は、きっとそのまま育つでしょうかね。

文部省は、学力を「生きる力」と規定していますけども、生きる力を持つ前提条件は、「自分を肯定的に考える(好き)」ということに支えられている、というのは、かなり大きいと、子供が出来てから特に思っています。そしてその「自分を肯定的に考える」は文部省管轄の「学校教育」世界とは何ら関係がない、という皮肉な関係性がありますかね。

親が(お勉強できようができまいが)自分に自信がもてない(自分が嫌い)という場合は、子供の生存戦略プログラムが破壊されやすく、どうしていいか分からないまま、自信なさげに日々を過ごし、自己否定の精神は受け継がれてしまう。

なんで結婚は本人同士の同意なのに、いつも親や親戚という面倒なステークフォルダがついてくるかといえば、この「自己肯定精神の連鎖」を見ることが結婚を決める(というか子供を生み育てる)上で、決定的に大切なんだということを、無意識に分かっているんじゃないかなあと思うんですけどね。

別に家柄がよいとかお金持ちとかというのは表層的なことであまり関係がなくて、実は対面したときの、お互いの「根拠のない自信ぶり」を見ている、なんてのはどうでしょう。(笑)

オトコラシサの話でした。

父親不在で、近隣から孤立して、閉鎖的な母子関係になりがちな現代社会では、やっぱり息子は育てにくい。
母親は理想を諦めて、息子は家庭を飛び出して、ストリートに出て「生きる力」を自ら獲得する瞬間からが、勝負なんじゃないですかねえ、と。オトコノコの場合は。

その点オンナノコは、母親が自分肯定派であれば、そのまま何もしなくても育っちゃうんでしょうね。母親が自分否定派であれば、べったり関係か絶縁関係かという距離の問題が発生してくるのでしょうけども、でもきっとオトコノコよりは育ちやすいのは、あるんじゃないかと思います。

このあたりが、一般的に表れている「草食のオトコノコ」と「肉食のオンナノコ」の発生の真意なんじゃないでしょうかねえ。

「母親と息子」というのは、今一番難しい。まわり観察してても思います。
わたしムスメしかいないので黙ってニコニコしてりゃいいんですけども。

実母が去年59歳で亡くなってますので、改めて考えてますけどもね。