ストリートのことを今週は考えよう、と思って、昨日ふと、ストリートワイズという造語があるのなら、その対義語ってなんですかね?と思って、ふと出てきたのが、「アカデミックワイズ(机上の知性)」。
ググッたら一件もヒットしません。言葉に妥当性があるかは別にして、語感はいいですかね。
今のところ「フラグメントフロア」とか「オミズマインド」とか、ネットの世界で、ここ以外に使っているところが見当たらない単語、というのがあって、結構それは狙って作っている節はあるのですが、今回も、だから少しニヤっとしました。(笑
わたし自身は所謂「学閥」といったようなものがあるような高学歴者ではないですけど、最近は個人的にはアカデミシャンともお付き合いがあったりもします。
ストリートワイズ、という立場から、アカデミックワイズの人たち、特に女性のアカデミックワイズの人と話していると、決してイヤではないし、魅力的な方も多いのですが、たまにこう、とても息苦しいものを感じる時があります。先日書いた「気後れ」に近いもの、しかしその「気後れ」をさらけ出すにはプライドが邪魔で、片意地を張ってしまったりするとか。その片意地をある時ふっと反省したりとか。(そのふっと反省する時のアカデミックワイズ男女の色気ってのが、ありますけどね)。
前に「リセットとチェンジ」で書いた雅子様(とその世代)について、と同じ感じですね。
以前内田樹さんがフェミニズムについて書いていて、フェミニズムという思想自体はとても大切なものだけど、運動そのものがなぜ退潮したのか、はフェミニストの「立ち居振る舞い」に問題があったのでは、という内容ですね。立ち居振る舞いの問題ってのは、そのアカデミックワイズの「プライド」に起因する片意地というやつです。
自分(と自分のような立場の人)を守ろうとするがあまりに、人の話に耳を傾けられなかったり、原理主義的になったり、ということですね。
内田さんは「街場の〜」という表現で、ストリートワイズ的なものを示していますが、つまり「ストリート=街場=現場」っていうことでしょうけど、このストリートワイズ的なものの「臨機応変さ」(オミズマインド)っていうのがあって、アカデミックワイズの「息苦しさ」は、その非オミズに起因するものなのでしょうね。
「事件は会議室で起きてんじゃねえ。現場で起きてんだ」とか「同情するならカネをくれ」とか、90年代は「会議室から現場へ」「お祭りから日常へ」という流れの中にあって、今の「ストリートワイズ」の空気ってのは、パッと最近出てきた新しいものではないし、わたしらにとっては馴染みの深い感覚なんですが、アカデミックワイズというものがあるとして、それでは辛い(生き残れない)、という時代では確かにあるのでしょうけども、なかなか机上から路上へ、というのは、勇気のいることですよね。
ストリート(現場)には現場の真実があって、それを感じることは単純に楽しいのよねえって、と昨日のチンドン屋さんも表現してましたけどね。