自立と互助、とか言うとですね、この人はあっち系(K産党系)とか言われてしまいかねないのですが(笑)そっち的かと言えば、そっち的かもしれませんが、何かに属したりは別にしていません。90年代若者でセッソウがなく、拡散系なもんですからね。
なんとか主義、があって、なんとか党があって、なんとか運動があって、その思想形態が右であろうと左であろうと、「協調」はしますが「収束」はしないのが拡散系の軸ですから、そういう風に聞かれると、違いますよって言います。形式や慣例にとらわれると、ロクなことがありません。
そんなんじゃなかなか世の中は変えられないぞ、とおっしゃていただける人生の諸先輩もいらっしゃいますが、世の中なだらか、です。
もし革命があっても、急進的な革命がなかなかうまくいかないことは歴史に知るところです。ですから、一昨日の話ではないですけど、「なだらか革命」でいいんです。
いいんです、というか、肺活量を使って、持続可能で実現可能な方法は、それしかないんですかね。
わたし24、5の頃に、もうお亡くなりになってしまいましたが、可愛がっていただいていた60過ぎのあるおじさまと会食してまして、こんな言葉を聞いたんですね。
人間やらなきゃいけないことをやっていると、出来ることが見えてくる。出来ることをやっているとやりたいことが見えてくる。
または、同じ時期、こんな話も聞きました。
20代は土を耕し、30代は種を捲き、40代に花を咲かせ、50代に実を収穫して、60代以降はその身を食べて生きる、とか。
どっちにしても、道のりはなだらかで長い、ということだけはその時わかって、そんなもんかねえと思いながら、10年です。
上に習えば、今は種まきの時期ですけど、なんとなく、言葉の含蓄は理解できるようになってきたような気がしますよ。
よく「やりたいことはなんですか?」って質問する人いますけど、本当にやりたいことなんて軽く出てくるもんなんですかね。うーんて考えて出るような答えは、きっと1が月たったら忘れちゃうような「やりたいこと」なんじゃないかなと思います。
わたしそう質問されると、おぼろげにはありますけど、抽象的すぎて、言葉にできませんって答えます。オミズですからね。
「やりたいこと」より大切だとわたしが思っているのは「大切にしていること」「その人になんとなくフックするもの」です。その人の根源、ですね。これだったら、すぐ答えられます。たくさんあるんで、長くなりますけどって言いながら。
人に興味がわいたら、わたしは「大切にしてることなんですか?」「フックするものってなんですか?」って聞くようにしています。そう質問された人は、深く考え、沈黙し、答えを見出そうとしてくれます。その濃度の高い時間が作られるだけで、わたしはその人との席は「有意義だったな」と思えます。
「やらなきゃいけないこと」の段階も「できること」の段階も「やりたいこと」の段階も、大切にしていることは、共通です。
土を耕してから、実を収穫するまでも、大切にすることはそう変わらないんだと思います。
その間に、その人にフックしていくものには、ある共通点があるはずです。
だって、変わってしまったら、その連綿と続く作業を「最後まで続ける」ことができないですもんね。
年末年始、今年も、もう結構多くの人の「大切にしていること」を聞いて、濃密な時間を過ごしました。それを聞くと、その人の「最低限守られるべき実存」が見えて、その人の長所が分かる。で、その実存を守り、その長所を生かして、その人がよりニコニコ生きられるために、どんなお手伝いが出来るか考えてアクションを起こしてみると、物事がまた少し変化したりする。
わたしにとってのコミュニケーションの動機ってそこだな、と年末の喧噪に交じって、再確認してみたりなんかしちゃったりして。
というわけで、スチャダラパーです。
っていうか、LBネイションです。