一年ほど前に別の所に書いた文章ですが、昨日「駆け引き」のことを書いていて、ふと思い出した文章があったので再録してみます。「20世紀というゲーム」という題でした。
ここをお読みいただいている方に言っておきますが、「拡散」についてのしつこい解説がありますので、適当に読み飛ばしてください。(笑)
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「ゲーム」好きですか?
私は全く、テレビゲームをやりません。テレビも見ないんで、正確に言うと「テレビに近づかない」ということになるんですが。でもテレビゲームの世界観って好きです。昔のはシンプルで、音楽も安っぽいけどポップで、かっこよかったですし。
たぶん最後にやったのは、大学生ぐらいの時に「任天堂64」が出て、スーパーマリオ64、が出たんですけど、それが最後です。マリオ世代としては、秀逸なゲームでした。あれは。
で、巷には「ゲーム理論」ってものがあります。
ゲーム理論ってのは諸説いろいろと内容があるのですが、要はゲームといえば、仕事もゲームだし、会社もゲーム、恋愛も結婚もゲームだし、とどのつまり人生はゲーム。つまりそこにルールがあって、勝ち負けがあって、参加不参加を自己選択できるものは全てゲームであって、ゲームに勝つには‥みたいなものがいろんなジャンルで語られてますですね。
「人生はゲーム」「世界はゲーム」、20世紀は確かに「ゲーム的枠組み」で物事が進んだのは確かだったのかもしれないですね。
でも今は変わってきてると私は思ってまして。
ゲームなので、かけひきとか主導権争いとか騙し合いとか、そういうことに長けた人が勝つ、というのは当たり前のことです。わたしも20歳ぐらいまではすごいゲーム好きでした。
それはテレビゲームだけじゃなくて、学校という場のゲームだったり、恋愛という場のゲームだったり、仲間という場のゲームだったり、家族という場のゲーム。いろんな人といろんな心理戦をやって、勝ったり負けたりしてきたんですね。
それが20過ぎから(マリオ64やったあたりから)あんまりゲームに興味が無くなってきたんですね。つまり「ゲームという枠組み」から興味がなくなった。
ゲームには、参加不参加の選択権があるという風に書きましたけど、「ゲームに参加する人」「ゲームから降りる人」のほかに「ゲームを超克する人」ってのがわたしはいると思うんですね。あらゆるゲームに興味が無くなって暇になったんで(笑)そういう事を考えてたら、25歳の時に浮かんだのが、ゲームに「参加」「不参加」「超克」する人を、上から「収束する」「逸脱する」「拡散する」人という単語で表記してみて、「拡散」いいじゃん、となりました。
環境問題なんかの引き金もあって、ビジネス業界でも「共生戦略」という言葉が出てきてます。地球を汚染したり、競合する会社を蹴落としたり、どこかから市場を奪ったり、そういう決められたパイの取り合いではなくって、まわりへの影響を最小限にしながら自分達のベネフィットを最大化していく、というやり方が、21世紀になって、出てきています。
でもこれは、別にビジネスだけじゃない、と本当は思うんですよ。
思うんですけどね、でも生きてて思うのは、個人の世界は相変わらず20世紀的なもの、つまりゲーム的枠組みで動く人がまだ多くて、とにかく個人が精神的に疲弊する世界観が、まだまだたくさん存在しますね。
そう、ゲームってのは本質的に「消耗戦」なんですよ。疲れちゃう。
でもそれが「嫌だ」と思って逃げる=つまりゲームから降りる=逸脱する、ではだめです、というのが今の社会の厳しいところで(ほんとに)それがニートとかフリーター問題だったり、不登校やDVの問題に直結するんだと思うんですね。
消耗戦は避けたいけど、降りたら生きていけない。だったらやっぱりそれを「超えて克服する=拡散する」という方法が、うまく社会と折り合いながらも、徒労感のない(疲労感はあるけど(笑))生き方なんじゃないか?
ゲームを、というかゲームという枠組みを超克する、つまり20世紀的なものの考え方を超える、前提条件としては、どうしても20世紀ルールはわかっておく必要もあるんですね。
それが「歴史に学ぶ」ということのひとつだと思うのですけど。
20世紀という時代はどういう流れで作られてきて、実際20世紀に何があったのか?
それで20世紀のカタチがわかれば、20世紀的なゲームの枠組みの中での「勝ち方」「負け方」「引き分け方」がなんとなくわかる。その経験や知恵を持って、これからどうなるんだろ?って興味を持つこと。
ゲームに参加するにしても、参加しないにしても、枠組みを超克するにしても、まあいずれにしても辛いことには変わりないんですが(笑)世紀をまたぐ時代にちょうどいい年齢っていうわたしが属する団塊Jr世代のある意味宿命みたいなもんじゃないかと思いますよ。
ご縁ですかね。これも。
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本当の意味での、20世紀というもののエンドロールが流れて始めてるんでしょうかね。
昨今の社会情勢や、身の回りでも、だいぶ緊張を強いられている現状を見て、改めて考えさせられてます。