少数派工作

世の中何かを動かそうとするときは「多数派工作」というのが必要です。世の中を変えるにはどうするか、モノがたくさん売れるにはどうするか、とかですね。実態経済はそうですけど、架空経済となると、話は複雑ですね。わたしが考えるに「プレ多数派工作」ですかね。多数になる前に手をうって、多数になるときに切り離す。その時間差で儲けるんですかね。

んで、題名ですけど。
たまに「少数派工作」という戦略を取る人がいますね。100人人がいて、99人が右行ったら「じゃあオレ左」とひとり左に行ってみる、という人ですね。

ここでよく出てくる「拡散」というのは、どっちにどれだけの人が流れようが、右に行くか左にいくかはその時々に自分で決める、ということを理論的には言っているのですけど、ものを考えたり判断したりするときに、必ず多数派の理屈の対偶として物事を考える、というのはありますよね。

だから、ここで「〜は〜である」と断言している箇所が多々ありますけど、それに多くの人が同意しちゃったり多くの人が同じことをしだしたら、たぶん興ざめして、また逆のことを言ったりする、というひねくれは否定できませんね。(笑)これは水の中の実存、に繋がる話ですけど。

わたし飲み屋で、瓶ビール頼むんですけど、「アサヒ、キリン、サッポロ、どれにしますか?」と言われたら、必ずサッポロ、って言うんですね。
単に事実サッポロビールが好きだ((特に赤星)、という面と、サッポロという人の確率が低い、という面と、サッポロを支持する理由でも、確かに「少数派美感」みたいなひねくれは否定しません。

そこで人から言われるわけですね。でもそれって、あなたがいう「拡散」の在りかただとしたら、「逸脱」とは何が違うの?という疑問です。100人右に言って、じゃあオレこっちと左に行く人は「逸脱」も一緒でしょ?と。

おっしゃるとおり、どっちかというと「拡散」は「逸脱」よりです。でも「逸脱」は必ず「収束」に文句をつけます。「ケッ、あいつら馬鹿だな右なんかいっちゃって」と。だけど「拡散」は右に行く人にも左に行く人にも文句言わないんです。事実や事情は、出来るだけ受け入れます。

私は、少数派好きで少数派戦略をとることが多いと思いますけど、それは判断軸だけの問題で、多数派を仮想敵にして自分の足元を固めたりはしないように注意します。(ま対立軸で動くと楽なので、ついやっちゃうこともありますけど、その時は反省します)

以前、少数派戦略を取るなあこの人、と思う著名人に質問したことがあるんですよ。主体的な「オレ左」戦略で不安になったり孤独に苛まれたりしませんか?その「根拠のない自信」を規定するもの(軸)はなんでしょ?と。

そしたらこう言われました。「愛」、特に小さい頃に受けた家族からの「無条件の承認」である、と。

「無条件の承認」という「余裕」を持った親やマネジメント層が増えることを、願うばかりです。

といいつつ、増えたら増えたで、この話は、きっと「少数派戦略者」自身によって、否定される運命です。(笑)

ややこしい、話です。