アナログマインドとオトナの関係

私のプロフィールは一言「拡散」って書いてありますけど、「拡散」っていうのは、私の「在りかた」を表す単語です。

常識や慣例、強いもの、大きいもの、そういうものと一線を駕して、自分の在りかたを第一に考える。(もちろん独りよがりの「在りかた」ではいけませんし、強いものを否定してもいけません)自分がいかに生きるか、を判断基準にして自分を追い込まないとニコニコ暮らしていけない、というのは、とても恐ろしい世の中であるわけですけど、老若男女そういう同志がまわりに増えてくるのは嬉しい限りです。


「拡散」というのは、だいぶ前の記事でも書いていますけど、例えば大きいものに巻き込まれないと不安で仕方ない層(収束とか迎合とか言ってます)、大きいものに反発して自己満足する層(逸脱とか反発とか言ってます)どちらにも属さず、イマをちゃんと捉えて「自分」で何かを判断して2本足で自立していこうとする層を「拡散」ということで、10年ぐらい前に文字にしてみたんです。

収束と逸脱というのは、判断軸が「自分以外」にありますから、どうしても「被害者意識」が発生します。何かが起こった時に「自分以外の何かが悪い」となってしまいます。それは「かっこ悪いな」と思って、どうしようかなと思って、「拡散」になったんですけど、「在りかた」の大切さは、オリンピックで活躍する人を見ていても分かりますね。

「自分の在りかた」ってのは、今までここに書いてきた言葉を使うと「美観」とか「皮膚感覚」とかっていうことですかね。惑いがない。


私は、自分も含めた90年代若者文化の時代性を今まで「節操がない」という言葉で表現してきたんです。例えば何かカテゴライズされたところに収まりきらない実在、あれ派だからこれできない、これ派だからあれできない、というようなことに縛られない。マスメディア(特にテレビ)に踊らされない。みたいなのは、少なくとも私のまわりの90年代若者の一部はそうでした。バブルという過剰な消費文化の疲弊を超えて出てきた自然さだったと思います。


節操って国語辞書引くと「自分の信念をかたく守って変えないこと。」なんですよね。つまり節操がないってのは「信念がない」ってことになるんですけど、それはちょっと違う(硬すぎる)んで、「節操」を「セッソウ」にして「セッソウがない」にこれからはしたいと思います。(笑


「風俗」と「フーゾク」ぐらい違います。


信「念」ではなくて信「軸」であって、「信念」とするにはやわらかすぎて曖昧すぎるものです。軸ってシナる竹みたいなイメージですかね。「しなやかな軸」。「しなやか」って田中康夫みたいですけど。(笑)

だから「セッソウがない」は「信念はあるけどやわらかい」です。カテゴライズが難しくなった世の中では、当然出てきた「生き方」じゃないかなと思います。まあ、いずれにしてもマイノリティでしょうけど。(だってそれがマジョリティになったら、行政とか各種制度とかマスメディアとか消費者向けビジネスとか、全部破綻しますから)

今はデジタルが牛耳る社会で、デジタルって2極です。「ゼロ」か「イチ」か。「好き」か「嫌い」か。「西」か「東」か。「勝ち」か「負け」か。
デジタルが世に出ていない頃、人間のマインドはデジタルでした。多くのことを2項対立にして、世の中を分断して生き残りゲームをしていた。その様々なゲームの繰り返しから出てきた考え方が「デジタル」の根本だったんじゃないかな。「格差社会」っていうのは、デジタルの(20世紀的なものの)極みであり結果ですけどね。だからある意味それが21世紀初頭に出てきたのは「20世紀の結果」として必然だったのではないのかなと。

そんな中「セッソウがない」拡散のあり方は、アナログマインドです。デジタルなものに囲まれるから、マインドはアナログに向かう。おもろです。
アナログは角(カド)がありません。昔「カドが取れたね」は「大人」を意味する形容でした。石と一緒で、人間も揉まれて経験を積むと角が取れてきますからね。


こうやって因数分解していくと、拡散=アナログマインド=大人ってことになりますけど・・

「大人」じゃなくて、「オトナ」です。