ディズニーランドと夢の島

僕はディズニーランドにあまり行ったことがないし、あまり行きたくない。
理由は多々あるけど、一番は「分不相応」、つまりディズニーランドを楽しめる人間ではない、ということを自覚していることにある。

突然話は飛ぶが(笑)学校や会社(つまり公=パブリック)で、人の上に立ち、組織や集団を動かす人間に一番必要な能力とはなんだろう?僕は思うに、「理想やビジョンを明確に持ち(自信)、語り(表現)、現実を理想に近づけていく行動力と決断力がある」ということに尽きると思う。
ディズニーランドというのは、まさにそういう能力を持った場所で、だからみんな引き寄せられるようにあの場所に何度も足を運ぶ。

人の上に立って何かを実現する、というのは「ディズニーランドを作る」ということと同義だ。

僕は個人的には猛烈な現実主義(リアリズム)の人である。今までそういうことを認識せざるを得なかったヒトやモノや場面に出くわしすぎたというのもあるし、その時その時深く考えすぎたという面もあろう。
底抜けの明るい、とか夢や幻想(つまりファンタジー)に溢れたものを避け、どこか皮肉だったり諦めだったり、そういう地に足のついたところで這うように生きてきた。「クールクレバータフネス」の「クール」とはそういう意味だ。

小学生の頃、「学校」「家庭」「それ以外」の3つを住み分けていた時期がある。何故そういうことが起こったかというと「それ以外」の場所で様々な表現や人との出会いが偶然のように度々用意され、僕はそれらに打ちひしがれていた。「おもろすぎる!」正直にそう思った。
そこで見せられた厳しい辛い苦しい様々な現実を知った僕は、分裂しないことには普段の平穏な生活を無邪気にやり過ごせなかったのである。小学生だから当たり前だけど。

一緒に行動していた僕の幼馴染は、すぐに学校には行けなくなり、部屋からも出られなくなった。(出るのに5年かかった)

僕も中学校まではなんとか分裂した世界をエネルギッシュに生き抜く生命力を持ち合わせていたが、いよいよ15歳で学校と地域社会の期待から降り、18歳で家庭生活から降りた。結局19歳で「それ以外」も全部壊した。そして20歳で「とりあえず何も考えず笑っちまえ」という人との出会いによって、リハビリを始めることになる。

底の諦めを持ちつつも、それでも前向きに生を楽しみ(苦しみ)、自分を成長させ続けるために、何が必要かを常に考え、というか成長とは何かを考えて行動することに20代の全てを費やしてきた、と言ってもいいと思う。

その20代に巻いた種が、今ぽつぽつ芽が出始めた。そこでは自分ひとりではなく、大切な仲間もいたり、守らないといけない場所も出来てきた。
つまり僕はそこでは、冒頭にいった「人や組織を牽引する」という足場が出来上がってきた。
実際そうなりたいと思って動いてきた面もあるのだが、実際そうなってきたときに、はて?自分にその資格はあるのだろうか?と思う。それは「ディズニーランドに行っていいのか?」と同じ理屈だ。分不相応ではないのか。ひとりで動くほうが分相応ではないか。

今までは夢の島(ごみ溜め場)を生きてきた。たまにディズニーランドに行って、無邪気に笑ったり夢や理想を語ったりすることもあったけれど、すぐ夢の島に戻れるという安心感があったればこそ出来ることだった。それは小学生から始まった分裂生活の延長線だったと思う。そういう生き方じゃないと安心できない性分なんだろう。
けれどもう夢の島には簡単に戻れないかもしれないな。エネルギーは無限ではないし、一人を分割しても生き抜けるほど世の中甘い状況ではなくなってきているのも事実である。

さて、人間はほんとバランスの生き物だと思う。ディズニーランドを楽しめないと自覚している人間であることは一生変わらなくとも、自分のステークフォルダ(関係各位)に対してディズニーランドを作ってあげたいとは思うのだから、面白いんだな。ヒトってのは。