曲がり角の向こう側

4月はいろんな人に会っていろんな話をした。
新しい顔、懐かしい顔、安心する顔、いろんな顔が私を出迎えてくれ、喜んだり怒ったり悲しんだり楽しんだり、まあ忙しい4月だった。

そんな中で、ほぼ5年以上ぶりに会う人と会ったとき、僕が書いたある文章がとても印象に残っていて、それが今でも思い出して、考える糧にしているという言葉をもらった時があった。

それはもう10年近く前だったと思うけど、文章のタイトルは「曲がり角の向こう」というなんかのミニコミ紙に載せた文章だったと記憶している。

僕はそこ頃ユースカルチャー(若者文化)を歴史的に振り返るということに腐心していて、とにかく世代論にかぶれていた。明治、大正、昭和、平成、その歴史を「若者」をキーワードにとにかく辿った。それは自分が20歳前後の「若者」だったからだと思うけど、とにかくおもろかったし自分の足場がどんどん鮮明になっていくのが分かって夢中だった。

「曲がり角の向こう」を、その5年以上ぶりに会った下北育ちのTちゃんの話から再現すると(私本人は詳細まで覚えていないので)、60年代、当時の若者(団塊の世代)は曲がり角の向こうから「若者が大人にはむかって何が悪い」という権利を取ってきた、70年代の若者は曲がり角の向こうに「若者が無気力で何も関心がなくて何が悪い、」という権利を取りにいった。80年代の若者は曲がり角の向こうに「若者が自分の好きなことだけやっていて何が悪い」という権利を取りにいった。僕らは、歴史をさかのぼれば、歴代の若者がその時その時小言を言われながら奪取したきた権利(自由)の上で生活している。今ある自由は初めから会ったもんではなくって、そういう歴史の積み重ねの上にあるんであって、それに無自覚っていうか無知ってどうよ?
みたいな内容でした。

そして問うたそうです。
「うちらは今、曲がり角の向こうに何を取りに行こうとしているのか?」

「でさ、結局さ、何取りに行ったのか分かった?」ってニコッて微笑みながら言われちゃったんですよね。その時。女って怖い。(笑)

90年代の若者って、曲がり角の向こうに何を取りに行ったんだろう?ってことだと、個人的に考えたら「節操がなくて何が悪い」ってとこかなあ。(笑)。僕らってエディット感覚重視世代でしょう。何より情報の取捨選択能力が人格の高低を決める!みたいなとこで育ってきたから、節操ないんだよね。上から見たら。
(前エントリーにも書いたけど)学校ではこう、家庭ではこう、それ以外ではこう、みたいな感じとかね。昔の不良って最終的に学校が好きだったりしたり地元のお祭りに熱を入れたりしたけど、僕ら以降の本当の不良ってのは、見た目にわかんない。

例えば音楽でも、80年代までってのは「ジャンル」と群がる人ってのはイコールだったと思うのね。音楽に思想が反映していた時代だったってのもあるけど、洋楽コンプレックス、みたいなものは僕ら以降はほとんどない。「アングラでもポップスでもいいものはいいで個人的で人にとやかく言われる筋合いはない」という節操のなさ、「脱連帯」、みたいなのを「それでもいいじゃん別に」ってのが、おそらく90年代若者が曲がり角の向こうに取りに行ったものだったんではないですかね?

とお答えして、ふむふむと納得していただきましたよ。

今「R30」とか「R25」とかってテレビとか雑誌とかってあって、世代論ってまた活発だよね。マーケットを年齢で区切るってのは今に始まったことじゃないけど、やっぱり「哲学より社会学、会議室より現場」な90年代を多感に過ごした世代が、ものづくりの主導権を握るような層になってきたら、当然そうなるんだよな。

さて、2000年代は益々見えにくくなってますが、誰か引き継いで「曲がり角の向こう」を解説して欲しいもんですね。あと10年後ぐらいに。