大瀧詠一のコクと深み

河出書房別冊ムック「大瀧詠一」読了。

一気に読んでしまった。僕は「ナイアガラー」ではなくて細野派ですけれど(笑)、やっぱりこの人も凄い。相変わらず万華鏡のような人だな。ほんとに頭いいな。ホレボレします。

巻頭の目玉、内田樹との対談!こういう「異種格闘技系」の対談は、僕も普段いくつか企画として思い描いていて、ひとつひとつ実現していくって嬉しいよね。編集者の嗅覚の問題なんだろうけど、たぶん同年代の人が企画したのかなあ。そうだといいなあ。

少なくとも大瀧詠一しか知らない、内田樹しかしらない、という人は半分しか楽しめないんだろうけど、両方の業績をリスペクトしていると、楽しみは数倍になるんだから、やっぱりいろいろと首突っ込んでおくべきなんだよね。本能の赴くままに。

で、この二人の対談ですが、面白すぎます。何で頭のいい人の会話って簡潔でスリリングでユーモアに溢れていて、飽きさせないんだろうか。本当に吸い込まれるように読みました。
話してんの楽しそうだし。僕も今頭をフル回転させて何時間でも話したい、楽しいぞこの時間っていう人が何人かいますけれども(両手ぐらいはいるかな)、そういう人を一人でも多くまわりに増やしたいと思うね。こういう対談を読んでいると。

「同じ業界の人とは話が合わない」というご両人、「枠(常識や通例)に収まらない」マイノリティの生き様がたっぷり詰まった対談でした。

「興味」とか「好奇心」とか、今は枠に収めたい人がいっぱいいて、枠をはみ出そうとすると叩き潰す周囲の目があって(星野仙一も自分のログで指摘しているね。これは野球界の話だけど)、本当に「管理」の行き届いた社会ってのがありますね。音楽業界だってもの凄く保守的になってるけど、どの業界だって似たようなもんで、やれスペシャリストだとか資格だとかいって、枠に入ろう入ろうとする。特に不景気や個人情報なんかの問題が絡んでほんとに「管理社会」ってな感じになっているしね。みんな不安だからね。捨てたくないし。

その対談でもやっぱり一番ワイルドだったのは進駐軍が駐留していた1950年代までだったんだよ、という言葉がありますけどね。僕らが生きた80年代以降ってのは枠がもう「自明化」して背景化していて、どうしようもなかったでしょう。それこそ寝る暇惜しんで自分で情報つかみにいって、ジャンルとか枠とかを自分でひとつひとつひっぺ換えしたり壊していくしか方法なかったもんね。不安と戦いながらね。(笑)まわり誰もやってねえよなこれ、っていう恐怖。これって、枠が自明化して以降の価値観でしょう?

煮込み料理の味の「コク」や「深み」ってのは、「いかに味を複雑にするか」がポイントだけれど、大瀧詠一とか内田樹とか見ていると人の「コク」や「深み」も同じだよなって思う。ひとつのことを一方から見ないし、自分の勘と運を頼りに、混乱せずに複雑なものを複雑なまま吸収していって、自然と自分だけの「座標軸」は出来上がっていって、ますます自分で自分に自信を深めながらひとり楽しんで生きていく。たまには周りに途中経過をおすそ分けする。まるで自分の鍋を自分で煮てる感じだよね。次、これ入れてみようかな、どうかな。みたいなね。しょうがだって、丸ごと入れたほうがいいのか、みじん切りのがいいのか、とかさ。(笑)凄く分かるよね。それ以上楽しいことって、ないもん。終わりがないし。自分でもどうなるか分からないわけだし。でもおいしくなる自信だけはあって。(笑)

そういう試行錯誤の「コク」と「深み」、先人のそれを味わえる幸せをかみ締めつつ、また明日から自分の鍋を自分で煮込むのである。「終わりなき煮込み」人生。