加点主義コミュニケーション

うちの次女、やっと3ヶ月目に入りましたけど表情が出てきたり、自分の「手」を自分のものだと認識してずーっと眺めたり、やっと人間らしくなってきたという感じです。

最近、奥さんから「女ほど母性のない男たちは果たして産まれた自分の赤ちゃんをすぐ「愛しい」と思えるか」という質問を受け、僕は正直に「思えない」と答えたんです。

だって、思えないでしょ。サルだもの。目元がパパね、なんて言われたって実感なんてわきゃしないんです。じゃあ赤ちゃんが「人間らしく」なって愛情が出てくるまでどうやって家庭生活を円満に凌ぐのか。それは赤ちゃんを対象とせず、他家族みんな(というか奥さん)の心の健康のために、おむつを替えたり、ミルクをあげたり、家事を分担したりするわけですよね。

それをねえ、他の妻子持ちの男連中に対して同じ事を聞いたんですよ。奥さんが。すると揃いも揃って「俺は産まれたときから可愛いと思った」などというわけですよ。ウソもはなはだしい。脇にいる奥さんに気遣う「クレバーウソ」なのか、単に何も考えてない「バカ」かどっちかだよね。(笑)
どっちにしても、そういう男どもより、家族への「愛情の注ぎ」をしている自信があるな。だって「そういうもの」だと思って割り切って考えてるから、どんな事象にも対応できるもん。たぶん、その「産まれてすぐ可愛い」の男どもは、家にいても家事ひとつしやしないんだ。おれは愛情を持っていると思い込むことで満足しているから。(笑)
割り切って手のかかる時期を乗り切ったら、あとは「ケツは拭くぜ」とデーンと構えて見守る。タフな親とはそういうものでしょ。

ここでねえ、「そんな割り切り、本当の愛情じゃない」っとおっしゃる方が多数いらっしゃるのですが、ちょっと待ってよ。「愛情」ってのは初めからそこにあるもの、じゃなくて「育む(はぐくむ)」ものだよね。赤ちゃん初めてみて、引出しから出来あがった愛情出してくんのかよって思うじゃない。デリバリーのピザとか寿司と一緒にしないでよ。(笑)

前回のログで「バカ純粋」って言葉が出てくるけど、こういう奴のことを言うんだよね。男だけじゃなく女の人も多いみたいですよ。奥さん曰く。

例えばね、ヒステリーとか子供を愛せないとかいってる母親がいたりして、公園なんかで子供が悪さすると、ほんと「キレ」ちゃう。自分も子供になって「本気」で怒っちゃう。まわりの子供が引いてるらしいんだけどね。無関係の子供が「引く」怒り方ってどんなだよって思っちゃうけども(笑)。実際いるみたいです。

こういう人ってね、「私が腹を痛めて産んだ子供だからどんな状況でも可愛い」という固定概念があって、そうじゃない状況(子供がかわいく思えない状況)になったときに、「あれ?あたしはこんな気持ちになっちゃいけないのに、今「にくい」って思っちゃった。どうしよう。ああパニック」という感じになって、ヒステリックになったり、自分で落ち込んでしまって子供の目が見れなくなったり、抱きしめてあげれなくなったりする。そこで心のタフさがないわけだ。

最初から、「愛情っていうのは無い状況からはぐくんでいくもので、でも人間は自分が一番かわいいから無償の愛にも限界があって、その中で最大限のパフォーマンスを子供にしてあげるには自分をどうやってコントロールしたらいいか」という「状況認識」と「未来戦略」を瞬時に考えられるってのが「クール&クレバー」じゃない?って奥さんと話していたんですけど、これはどうもマジョリティーの賛同を得ませんねえ。なかなか。(笑)

こりゃ子供に対してだけじゃないですよ。あらゆる人に対して「過大な自己イメージと他者イメージ」を持っちゃうから、人に対して厳しくなって出会いを逃したり、他者から学ばず自己を成長させずに人と別れていったりするのである。

『「自分が何を知らないか」を知っている』ことを「教養」というのだというのは内田樹の言葉だけど、自分がいかに何を知らないか=愚鈍か、ということと向き合うってこと(つまり挫折)をしてない奴が多すぎるんではないかな。だから人とコミュニケーションを取りたがらない。他者からのインプットは何もなく、自己イメージだけが肥大していくのである。(最近凶悪犯罪報道でよく使われるよね。自己イメージの肥大って)

愚鈍さに気づく、というのはは最低条件で、その上で、愚鈍な自分という現実を受け入れる=愚鈍だけどそれでも自分は好き、という「前向きに生き延びる強さ」に辿り着く(挫折からの復帰)が出来たら、後はなんとかなる。(うちではこれをクールクレバータフネスと言っているわけだけど)

これをしてないと、他者に過剰な期待をしたり、他者のいない自己満足での世界を押し付けたりして、とても「他者との共生」が出来る状態じゃなくなっちゃうわけでしょ。だって「他者への期待」が満たされる場合と「自己」が無条件に受け入れてもらえる場合だけしか、人を受け入れられないわけだから。こわいねえ。

つまり、過小な自己(でも好き)で他者を「加点」方式で接していけば、常に「加点主義」でどんな人でもコミュニケーションの中から「何かしら得て」くることができる。何かが得られるんだという期待が「人の話を聞く」という行為に繋がって、コミュニケーションはより深度を増す。

他者に対して過剰イメージを最初から持って自己が肥大している「減点主義」で生活していく人にはこれはずーっと出来ない。

例えばこれを10年間コミュニケ−ションの基本として生活したら、どれだけの人と会って、どれだけのものを吸収して、加点主義者と減点主義者の人間リソースにどれだけの差が生まれるのか。そしてそれぞれの子供たちは。。

考えるだけで恐ろしい・・。