返礼返礼また返礼に考える形式主義を超えた先にある普遍性について

最近は壁掛けカレンダー作って配る法人も少なくなってきたようで、直接にせよ、手紙付き郵送にしろ、渡す先々で有難がられた昨年末でした。
 
お礼にすぐ電話いただいたりメールいただいたり色々ですけど、返礼品をいただく場合もあります。本日香川からミカンが届きまして、個包装されたみかんが3キロ…。カレンダーが、個包装された香川ミカンになって返ってくるというのは、お気持ちは大変有難いのですが、わらしべ長者風情が過ぎるので、品定め熟慮の末、返礼の返礼として巣鴨大塚で戦前から営業を続ける「千成もなか」さんのモナカと栗どら焼きを関西四国方面に先ほど手配しました。
 
 このまま返礼返礼また返礼となっていくパターンも色んな御仁と過去何度かあるわけですが、それはそれで楽しく、利害を超えて長く繋がりを持ちたいと思う人たちと、そういう気持ちのやりとりを重ねていくことのノンストレスさに染み入る一方、昨今の形式主義的な文化風習の衰退及び飲みニケーションとか言う場や夜の街文化の衰退などに見られる、ストレスフルな非合理は全てやめてしまえ感がコロナで強調される社会において、もし後者に、形式主義的なストレスを超えたところに、いつでも無条件に嬉々として繋がりたいと思う他者が不在で、目の前にあるのはスマホ画面と溢れる情報、そしてフルコントロール可能で予定調和のひとりの自由、のみであるならば、それは旧いシステムの非合理性とかいう理屈の前に考えなければならない普遍性もあるように思います。何故なら、すべてはカネと消費で解決できるという幻想の時代は、もうあとそう長く続かないように思うからです。
 
成長は、自分をあらぬ場所に連れて行ってくれる師の存在や、新たな気づきを常に与えてくれる友、親しき中にも何とやらの距離から豪速球を次々と投げ込んでくる家族との、ヒリヒリする、そして癒されもする、長きに渡るコミニュケーションの積み重ねなくしてなしえないと思いますが、成長拒否もひとつの選択である現世において、最近手に取った「負け犬の遠吠え」で有名になった酒井順子さんの最新エッセイ本のタイトルが「ガラスの50代」であるように、成長拒否はガラス細工の繊細さを温存してしまいがちで、10代のガラスは美しく儚いけど、50代のガラスは単に厄介だなと思いますし、雑に扱われてもニコニコしてる呑気バカな初老を目指したほうが健全だと酒井さんの本読んでて改めて思いました。笑
 
成長とは、万物との、敬意と愛情をベースにした長きに渡る対話である、と示した名もなき多くの先達に思いを馳せたり、馳せさせかけたり、馳せかけさせまくったり、と大忙しの昼下がりでございました。