潔癖と完璧

少し前に、歌舞伎町や池袋といった場所の風俗店が軒並み摘発を受けて、特に店舗型(カラオケボックスみたいな個室風俗)が壊滅状態になったのだけど、最近郊外の、例えば西川口とか横浜黄金町(ちょんの間)が摘発されていると聞きます。

これは別に風俗業界だけではなくて、子供がいるので育児業界なんかもわかるけど、その子育ての潔癖ぶり(近代社会ぶり)は益々加速しているように思う。何を与えちゃだめだとか、こういう子育てをしてないと手遅れだとか、それを相対化せずに鵜呑みにしてしまう人にとっては、どちらにしても失敗を許さない啓蒙になり、プレッシャーに追い込まれてしまうことは確か、ではないかと思います。

こういうことってのは、社会も政治も個人も、もの凄く複雑化していてとても一言では言い表せないので、単細胞化(いいか悪いか、賛成か反対かの2元論)している表れで、そういう「わかりやすい(現時点で倫理的じゃないものはすべて排除せよ)」行政をしないと、目に見える部分でしか捉えられない市民の賛同を得られない、ということがあるんですよね。
つまり先日の内田樹のブログじゃないですけど「複雑化したものを捉えて理解している」エリートと複雑化したものを捉えるのが面倒なのでお任せします」という大衆に分かれていくと。

こういう流れとか、お上の政策とかそれを放置する大衆にどういう防御をしていくかというのは、まわりとの兼ねあいもあって非常に難しいんですよね。一人もんだったらいいですけど、奥さん子供を大衆から孤立させるわけにはいかないので、その「複雑化したもの」を家族全員で理解して振舞ってもらう必要があるわけですよね。(そこで武士道な妻が必要となる)

ここで名前が出てくる有名人とか識者(つまり私の嗜好となる人物)の共通点は「複雑なものを複雑なまま」受容できる懐の深さと、自分自身の人生が「多岐」に渡って揺り動きながら、その自分の真理を追求しているということに尽きると思うんですけどね。

そういうのを私の中では完璧というんであって、きれいな道、きれいな環境しか歩けない「潔癖」な人は「病気」なんですけど、どうもそれに気づかない人が多くて、やりずらい。(笑
ただ、類は友を呼ぶで、必然的にまわりには「潔癖」ではなく「完璧」を求める、ドラマにとんだ人生を歩まれている人が集まってくれるので、なんとか助かってますけどね。
それが少数派であることは、非常に危険だけれども、致し方ない、という風にも思ってます。