反骨のジャーナリストと鬼畜ナイト

私が、細野晴臣氏と同じように間接的に多大な影響を受けている人物がもう一人います。鎌田慧というジャーナリストです。60過ぎのおっさんですけど。

「孤高」「反骨」という形容ができるジャーナリストというのは最近はいるようであまりいません。(噂の真相もよくこういった形容詞使われますね。今度CSで復活するみたいですが。テレビでやるって凄いな)

 この人は一言で言うと「弱者の味方」です。最近こそ「勝ち組負け組」「弱肉強食」なんて言葉がよく使われますが、この人は70年代から弱者の現場から社会の歪を指摘して、冷静に対応策を示しています。(当時の弱者と今の弱者はちょっと意味が違いますけど)

 冷戦構造の「右」「左」がはっきりとしていた頃は「左側」なイデオロギー闘争みたいなもんに巻き込まれたり、そういったことに利用する輩もいっぱいいたんだろうなあ、と思います。「平和」「平等」「人権」「差別」といったテーマは非常に難しいんですけど、私は、鎌田慧の言う「それ」は、似非ではない、なんというか「うさん臭さ」がない、というのはあると思いますよね。

 それは「ルポ」という形式もあると思うんですけど、この人の文体の「誠実さ」とか「覚悟」とか「使命感」みたいなものがどかっと伝わってくるんですよね。まさに「孤高」、思想背景とかイデオロギーとかそういうのは関係なく、「本物」に触れるとはこういうことかという思いがします。今でも一貫した姿勢には感服します。

 最近「ニート」などの新たな弱者に対してのルポ的なものが出てますけど、もの凄く恣意的だったり、取材対象とする人達の片寄り(取材しやすいところを選ぶ)があったりして、あまりいい本とはいえなかったりします。

 船井幸雄という「経営の神様」と呼ばれる人がいるんですけど(この人はちょっとうさん臭いところもある。(笑))この人は「宇宙の理」という言葉を使うんです。一介の時代の精神にとらわれない姿勢、先見性、慈愛、大枠だけ言うと宗教じみて一般人は尻込みするような言葉の羅列ですけど、鎌田慧のリアリズムをこの「宇宙の理」として照らすと、その言葉が光っているように感じますね。

 代表作は「自動車絶望工場」ですかね。自動車工場には短期間だけの工場労働者(今でいう派遣みたいなもんですけど)を定期的に雇って、安い賃金で敷地内に閉じ込められて重労働に励む、みたいな人がいてですね。(今でも新聞で募集してるのみたりします)この人は自分でそれになって(元々は早稲田出の新聞記者だったわけですよ)その知見を書いたのがそれですね。もうぐいぐい引っ張られます。

僕らが高校生だった90年代初頭あたりは「下層文化」っていうものがもの凄く揺り戻しにあった時期ですよね。根本敬の漫画とか、クーロン黒沢とか高城剛が「東南アジア」に向いたり、バクシーシ山下なんかのAV「労働者階級」シリーズとか。インターネットの波及と呼応するように死体や奇形などの写真が流行ったり。(鬼畜という言葉が一部流行ったりね)バブル時の煌びやかさで社会の暗部として蓋をされてきたものが一気に噴出した感があったりしましたねえ。「言葉狩り」とか言われてね。「フリッパーズギター」とか狩られたりね。(笑)私がこの本に出会ったのはそういう流れの一環かもしれません。「左」という言葉はもう有効ではなかったけど、少なくとも「社会のシステムを疑え」ということは教わりましたね。

あと管理教育を題材にした「教育工場の子供達」も絶品ですね。
 
私も含め、団塊JR世代は、「管理教育」のモロ影響下ですからねえ。まあ地方によっても違いますけど、特に首都圏はひどかった。(本では特に千葉と愛知がひどいとなっている)教員の数に比べて生徒人数は多すぎたのでそう「せざるを得なかった」側面もあるでしょうけどね。

 M2でも言及されてますけど、最近歴史を見るときに「敢えてした」「当面行った」、つまり本意ではないけど行ったという方針や制度なんかがありますよね。でも後発の人達は、それを先人の本意と捉えて、それが「正」になってしまうという、子供が習う歴史は「事実」だけなので、その意味性についての追求をしておかないととんでもないことになりますね。暗記教育はそれが出来ないので、懐疑的にモノを見る力がない。企業内でも同じこといっぱいあってですね。何かをしなければならない、というときによっぽど冷静に、先見性を持って、急を要する場合は場当たり対応した後のことをきちっと考えて、やる必要をものすごく感じるのですよね。グランドデザインじゃないですけど、その方向に物事はすすっと動いていってしまう。
建物の構造を考えたりする人もそうですよね。今の科学は恐ろしいですから、本当に思ったように人が動いたりしてしまいます。それは誰にも止められないわけですからね。

日本の歴史は「うやむや」の歴史なのかもしれません。
 
鎌田さんは、そういう安易な決断の連続で方向づけられている日本の水流を、「変える」までは出来ないと知りつつも、その水質をちょっとでも上げようと奮闘される姿があって、 そういった覚悟とか責任とか洞察とか潔さとか、そういう本物に少しでも多く出会いたいといつも思っています。