両親を失くすことで前景化する無意識、そしてアンチのリスクについて

父が亡くなって12日が経過した。堪えている自分から逃げたり、誤魔化したり、虚勢を張ったりしても仕方ないので、なるべく丁寧に毎日を過ごしながら、心身の安定が自然に戻るのをじっと待っている。

親を双方失ってみて初めて分かること気づくことがたくさんあるのだけど、これほどまでに親の存在が、自己のエネルギーの源泉と土台となっていたのか、について一番驚いている。

運良く、親から自立でき、家族や会社など自分が守らなければならないものができ、気持ち良く精力的に社会活動を営めている身として、日常では意識的に、例えば「自分のため、家族のため、社員のため、お客様のため」に営みに真摯に取り組むモチベーションが出ていると思っていた。

しかし実は「親を安心させたい、喜ばせたい、哀しませない」といったラディカルな幼少から積み上がっている子供としての気持ちが強固な土台といて積み上がっていることに、親を失くしてみて初めて気づくのである。

自立したオトナになるにつれてそのラディカルな親を想う子の気持ちは背景化して無意識化していたようだが、親が物理的にいなくなることで、それが前景化してきたのである。

あたしは親を尊敬していたし、親もあたしを愛してくれていたと思うし、なので長い年月をかけて、良好で距離を保った自立の関係を親子双方で模索することができたので、そのラディカルな思いは無意識化背景化させることができたのである。親父からも「先に死んでいくやつのこと(自分のこと)なんかほっといて、これからを生きるやつ(あたしの子供)を必死で守れ」と言われていた。あたしも自分の子供に同じことを言うと思うが。

そこで考えるのは「そうでない場合」である。

逆に、親と子がアンチの関係で、子供が「親に負けない、バカにされない、見返してやる」というような、ラディカルな親子の思いがオトナになっても常に前景化した状態だったとしたら、親が亡くなった時どうなるのだろうか、と。

あたしは親子関係に限らず、アンチ(対抗)は一時的には爆発的なエネルギーを生むが、持続性に欠けるのでダメだと思っている。それは例えば、この5年に渡る大塚家具の父娘の関係の悪化と大塚家具の業績悪化によく表れている。あたしが先代から会社を引き継いだのは、その大塚家具の内輪もめが起きるちょっと前のことだが、代表交代宣言の時に「オルタナティブ」を口にし、不易流行を経営理念に新たに掲げたことをよく覚えている。今の幸福な会社経営があるのは、そのおかげてあり、故に「アンチがなぜダメか」を身に染みて知っている。

あたしは、親へのアンチをエンジンにして人生を闘ってきた人のほうが、親が物理的にいなくなった時のダメージは大きいと思う。何故なら、死ぬ直前まで親と子の間を繋ぐ綱が引っ張り合ってピーンと張った状態から、急に相手の引っ張る力が無くなるからだ。そうなったら子のほうは後ろに尻もちをついてしまう。

自立というのは、最初は親に綱を引っ張ってもらい、だんだん親の引っ張りが不要になり、親がいなくても(綱が緩んだ状態でも)自分の生を立てることができるということである。だから、親の綱から力が完全に消えても、子である自分の軸はブレることがない。(少なくとも尻もちはつかない)

あたしは親が居なくなるというのは、自分の身体から出ている綱から力を感じなくなることだけだと思っていたし、それで尻もちさえつかなければ(二本足で立ってさえいれば)なんとかなるだろうと思っていたが、まさかその足が踏みしめている地面も揺らぐほどの出来事になるとは想像していなかった。そのことに驚きを隠せずにいる、というのが、父が亡くなってから12日目のあたしの感慨である。