近代的自立にまつわる私家版三代話

父が亡くなってもうすぐ20日になる。まだ20日か、という長さである。

相続手続きやら保険や年金の停止解約やらと事務処理が次から次へとやってくる。戸籍謄本や抄本、附表なども取り寄せているが、親父の3代前からの名前が載っているし、まさに歴史が詰まっていて、いつまでも眺めていられるよ戸籍謄本関係。楽しい。

もちろん隠し子だのなんだのってあたしのしらない事実はなくて良かったけど(笑)、それは冗談として、ひとつ明らかになったのは、うちの父は自分の家を建てるまで、住民票も一度も実家から異動していないということである。これは意外な感じがしている。

父は進学で上京して、就職で地元に戻るも転勤前提に仕事であり、当然あたしも何度か転校している。転校経験があたしにもたらした効用については過去何度も書いているが、当然そのたびに住民票はうつされ、歴代の住所が出てくるものだと思って、ノスタル爺的に少し楽しみにしていたのだが、現在の家の住所しか記録されていなかった。

それは転勤する度に住民票を移すのは面倒だという合理的な判断だったのかもしれないが、あたしは父の「イエというものへのかすかなこだわり」をそこに感じなくもない。


ここで話は父の父、あたしの父方の祖父の話になる。前の前のエントリで祖父は、父が11歳の時に病死していると書いたが、戦前は青山師範学校(今の東京学芸大学)で教鞭を取っていたという人物であり、それが江戸時代まで豪農として君臨していたイエが明治の近代化以降、昭和の初期にいたり没落の危機に陥り、祖父は東京から呼び戻され、地元の学校教師になるという事実がある。つまりこの時代まで、まだ明治以降の「家父長制」と根強いイエ制度の縛りは(旧家ゆえ)きつかったのである。

その祖父の3男として戦後すぐに生を受けた父は、前の前でも書いたように、戦後民主主義教育を受けつつ、父の早すぎる死という不幸を経験しながら、地元の進学校から六大学に進学し、ニューファミリーと言われる70年代前半に結婚し、団塊JRとなるあたしを産んでいる。

つまり祖父→父にいたるまでに、近代的自立とムラ社会的イエの狭間で葛藤する祖父の背中を見ながら、父はイエのしがらみから自由に生きてきたと思う。それは3男という環境と条件も当然あるわけだけれども、イエから自立しない次男以下なんて話もたくさんあるわけなので、その変数は置いておく。父は、そのまま転勤しながらキャリアを積み、40歳で自分の家を持ち、子供も自立させ、夫婦仲良く、家族も適度な距離感を持って依存体質もなく、しがらみもなく、自由と責任を負う近代的自立を達成したかのように思われる。

そこにこの、住民票を40歳まで移動していなかった事実、父の「ゆらぎと葛藤」ではないかと思うのだ。

「近代的自立を前提とした都市型コミュニティ」と「日本従来型のムラ社会を前提としたイエ(農村型)コミュニティ」その双方の狭間で、3代に渡り、ゆらぎと葛藤を繰り返し続け、そのあげくの、イエの重圧がほとんどないあたしは、ひとつの完成形なんであることを改めて考えている。

そして自分の娘たちを見れば、そこにもう「イエ」のしがらみは全く存在していないし、あたしも特になにも強要しない。全員嫁に行って、名字が消えても特に何とも思わない。先祖が生きた証が末長く語り継がれる事、父母が眠る、そしてあたしら夫婦も入る予定の墓が末長く守られることだけを微かに願うのである。

その存続のために、唯一残るの行為は先祖のお墓参りということになる。うちの家族は昔から墓マイラ-なんだけど、その理由をいま改めて自覚している。もう習慣化しているので、おそらくムスメたちは墓を大事にしてくれるはずである。

祖父→父→あたしと3代で語る物語があるとして、明治以降の近代化と、夏目漱石以来、近代化と共に考えなければならなかった「個人の自立」を見る時、やっぱり戦争と敗戦という動乱の大きさをまず考える。その動乱がなければ、物語はまた全然違うものになったはずである。

このコロナ禍という動乱をあたしがどのような在り方で乗り越えるかは分からないが、あたしを1代としたとき、3代後(あたしの孫)が居るとして、3代目はどのようにあたしを捉え、その時代を生きるだろうか。楽しみでもあるし、いま現在を真剣に生きようと、背筋が伸びる。