父逝く

5月10日に父が亡くなった。一年半前に10年以上続けた一人暮らしをやめて自ら施設へ、一年前に施設で転倒して入院しそのまま寝たきりとなり、半年前に実家のある地域から東京に移設して、ちょうど半年で亡くなった。
あたしは12年前に母を癌で亡くしているので早くも両親を共に失くすことになった。同年代ではほぼ見当たらない。12年前の母の死とは比べ物にならない虚無感に耐えている。

父がどういう人物だったかを少し振り返っておく。

敗戦直前に生を受け「焼け野原世代」として戦後の民主主義教育を受け、まだ20%に満たない進学率だった4年制大学に進み、堅い仕事に就き、定年まで勤めた父に教わったことは3つあった。

1つは来る者拒まず去る者追わず、ヒトやモノに執着しないという佇まいについて、次に路が二手に分かれた時、積極的に辛く苦しい方を選べという生きる姿勢について、そして最後に「寝るより楽はなかりけり」という人生の落としどころについて、の3つである。あたしはこの通りに生きてきたといって過言ではない。

寝たきりになってから、家族の介護の在り方、それは世間一般にどうかではなく、父にとって一番よい環境と条件は何なのか、葛藤を繰り返した。遺言に延命治療はしないとあったが、父は自分の尊厳と矜持が崩れてまで生きたくないという意思がはっきりとあった。そして身体は動かなくなっても頭は最期まではっきりとしていた。

長生きして欲しいと願う家族にとって、「オレは人生に満足した。お前も諦めてオレの命を長引かせる悪あがきはよせ」という父の言動は自殺願望ではないかと最初は考えた。でも最後は、それが父の最後の意志であり願いなのだと分かった時(いや、あきらめがついた時)父は亡くなった。

奇しくも、あたしの46歳の誕生日の5日前だった。父の父、つまりわたしの祖父は45歳で亡くなっている。父が11歳、小学校5年生の時だそうだが、あたしが45歳まで生き延びるか見届けて旅立っていったとしか思えない。不思議な数字の一致である。

父は武道の達人のような佇まいの人だった。目立つことを嫌い、いつもその存在を多勢の場で消すのだが、存在感が逆に際立つという風体の人だった。おじいちゃんとして、みんな孫の成長を何らかの成果で確認するのが常であろうが、父はうちの三姉妹の「目」「書く字」「食べ方」を見て、あたしら夫婦に「お前ら、子育て頑張ってるな」とボソッと言いにくるような人だった。多くを聞かず、多くを語らず、その本質を突く洞察力をどこで身につけたのか、いまは聞くこともできない。

従って、あたしも嘘、ごまかし、取り繕いの一切は効力を発揮しなかったので、成長すればするほど、そういった無理が取れていったような気がする。父の存在がわたしを人間としての成熟に導いていったことは間違いない。

それと、父は堅い職業だったのだが、あたしは反対に、不安定極まりない中小企業の経営者の道を志したのは何故か。それは父が大組織、旧態依然とした官僚組織の中で続く無理の中を生きてきたことについて、背中でそれとは別の生き方を模索しろと勝手に受け取ったことが大きい。職業選択において父の影響は計り知れない。

普通、親と同じ職業に就くのが親孝行っぽく見えるものだが、アンチではなく、親父のメッセージを素直に受け取り、まったく真逆の道を行くという例を、あまり聞いたことがないが、あたしら親子の在り方だったのかもしれない。

焼け野原世代として、戦後民主主義第一世代として、民主主義の根幹を支えるはずの「自立した個人」という幻影を自己確立しようと、自由と責任、愛と孤独、近代的個人とは何なのか、を徹底的に考え、実践し続けた人だというのが、あたしの親父評である。

ちょっと前に大瀧詠一のゴーゴーナイアガラの再放送でクレイジーキャッツ特集の最後に大瀧さんが語った言葉をここに引用しておく。

松本隆も影響をうけた詩人の渡辺武信氏が【戦後民主主義の幻影のもっともラディカルなところである「自立した個人」という神話のもっとも楽観的な確認】とクレイジーを評しております」

親父はクレイジーキャッツが大好きだったろうか。今はそれも聞くことはできない。