コロナ禍の渦中に考える山下達郎と志村けんの共通点あるいは相違点、そして日本のお笑いのリズム史について

リーマンショックどころか戦時下とも言われる状況になってきました。2016年のオリンピック招致から大不況を想定して動いてきて、この不況に動じない財務体質や組織体質を作ってきた身とはいえ、やはり例年通り桜を眺め楽しむことが出来ない自分に気がづきます。冷静で俯瞰の視座を意識しつつも、そういう「動揺や緊張、ストレスを感じている自分」を封じ込めず、素直に認め、そのうえで考えていくことが大事かなと思っています。

そんなコロナ禍の中で、志村けんさんがお亡くなりになりました。達郎さんもラジオでヒゲダンスのテーマと元ネタをかけ、元ネタは日本で700枚しか売れなかった(その700人のうち二人が志村さんと自分であるのだ)ということをラジオでおっしゃっていたそうですが、歳も同じぐらいですし、ジャンルは違えど同志感があったのだと思います。

どの辺が同志なのかというのは、好事家の皆さんはご承知の通り、スジの通し方ですよね。達郎さんが「テレビ出ない、CMやらない、武道館やらない」という決め事を自分に課すのと同じように、志村さんもコント以外のことはほとんどしなかった。晩年はテレビ業界の停滞にあわせてそうも言ってられない状況にもなりましたけど、作り込んだ笑いに最後までこだわっていました。

あたし追悼番組録画で見たんですけど、志村さんと達郎さんの違いは、作品の需要層をどこに置くかという視点の違いだったように思います。達郎さんは自分と同世代、またはライドオンタイム周辺の80年代前半にファンになった僧と一緒に老けていく、というスタイルをとりましたが、志村さんはずっと、その時代時代の子供たちを笑わせること、に拘ってきたと思います。そして70年代の子供、80年代の子供、90年代の子供をそれぞれ笑わせてきて、ゼロ年代、10年代の子供も、追悼番組見てゲラゲラ笑っている。達郎さんがゼロ年代に入って若い人に発掘されて再評価されるのと同じで、結局お二人とも、そのジャンルの「普遍性」を後から獲得しています。お二人とも道程は違えど結果は同じ、それはスジを通し続けたが故の神からの贈り物ですね。

あたしは日本のお笑いをリズムと大衆音楽変遷に例えて言えば、ラテンの時代(エノケンロッパ)→ジャズの時代(クレイジーキャッツ)→ロックの時代(荒井注のドリフ)→ソウルの時代(志村けんのドリフ)→パンク(ビートパンク)の時代(ツービート)→ニューウェーブの時代(ダウンタウン)という系譜になるんだろうと思っています。

ドリフが志村以前と志村以後で違うのは、具体的には身体の動きで、志村ひとりだけが曲線的な動きをする。他のメンバーは直線的な動きです。曲線的な動きっていうのは1小節を8分じゃなくて16分で分割しているということと同じことで、志村の登場は、ピンクレディーの登場と時期も似ていて、日本に16ビートを根付かせた先駆者ということをあたしは思っています。

ピンクレディーが出てきた時、松本隆さんが大瀧さんに向かって「あればあんたの仕事だろう」と言ったとかいう逸話がありますが、大瀧さんはその時音頭をやっていた。どうして音頭だったのかは、細野さんが打ち込みに行ったことの反動だった説にあたしは同意するんですが、はて。

いずれにしても、音頭の大瀧さんも、ソウルの志村さんも、ビートパンク漫才を支えた高田文夫さんも、64年のビートルズ来日公演を生で見ている。そしてステージではドリフが「ノッポのサリー」を演奏していた。結局その後の全ての基点になっているビートルズスゲー、というお話でした。(笑)