よたびレクイエム~寺さんの功績を偲ぶ

レクイエム続きますが、寺内タケシ、寺さんが亡くなりました。
 
茨城県が生んだ戦後史に残る三大大衆音楽家と言えば、「有楽町で逢いましょう」の吉田正センセ、寺内タケシ、そして遠藤賢司、だとあたしは思いますが、寺さんは土浦市生まれ、あたしも生まれは土浦なんですけど10ヶ月しかいなかったので、寺内家が土浦に誇っていた力なんかは後から知りますけど笑、去年亡くなった親父と、寺内タケシの話を、そういえば、しそびれました。
 
83歳だそうですけど、寺さんの10代、つまり1950年代中盤から逸話揃いで、その才を古賀政男に認められて明治大学に入るもすぐ辞めるとか、米軍キャンプ興行で10代からAランク演奏家で荒稼ぎ、特に米兵のリクエストに応じて50州歌を全部ギターで弾けたとか、まさに天才少年で、若き天才ギタリストの系譜は、寺内タケシ鈴木茂→竹中尚人とその後いくわけですけど、char以降は思いつきませんな。
 
米軍キャンプ興行師たちは、その後ナベプロホリプロを筆頭にテレビ興行の世界に入っていくわけですけど、寺さんはギタリストバンドマンを貫き、エレキギターの啓蒙普及で学校をまわり、と、テレビに入っていく人たちとも、ムッシュかまやつのような在り方ともまた違う感じで、広義の戦後芸能史に刻まれる活動をした人だと思います。
あたしが楽器に触れ始めバンドをやり始めるのは80年代中盤、まだバンドは健全な青少年がやるものではない、という偏見はかすかに地方にはありましたが、隠れてやるようなものではなくなっていました。それは煎じ詰めれば寺さんのおかげなのです。
 
60年代後半から70年代前半、細野さんや大瀧さんはツアー嫌いでしたが、その理由のひとつに楽器を担いで外を歩くのが目立ってイヤ、という理由があったとかなかったとか。目立ちたい、モテたい、じゃなくて、イノセントな音楽好きが音楽活動をするには強固な意志が必要だったことを物語る一説で、まさか現世において、コロナ禍でそれが再帰され、楽器を担いでいるだけで三密野郎と差別され奇異な目で見られ、避けられ、心ない言葉を浴びると言ったバンドマン差別の世界がまた来るとは思ってなかったですけどね。
 
いま当たり前になっていることは、先人たちが苦労してひとつひとつ獲得してきた権利の上に成り立っていると気付かされたのは若者文化史を学び直した20歳ぐらいからだったと思いますが、1950年代からエレキギターやアンプやPAを自作し、映像の乏しい時代に現場で独学で奏法を学び、酔っ払って喧嘩になればすぐ銃で撃ち合いが始まるような米軍キャンプの中で腕を鍛え、どんな差別偏見を受けようがエレキギターとバンドサウンドの魅力を社会に訴え続け、その結実として、70年代以降、バンドマンが市民権を得ていくという流れを追悼の意と共に。