無類派と突破系

最近新聞で目にした単語で、よく使う単語です。「無類」

セッソウがないので、特定の宗教や思想といったもの、要は他人が用意したものを基軸として動かない、という面があって、じゃあそんな自分を基軸にして動けるほどおめえは自分に自信があんのかよ、ということがあって、それ培うために毎日生きてんじゃんかよっていうことがあって、そんな中で、過去ずっと私が惹かれる人やモノ、集まってくる人やモノ、その共通点はなんだろう、ということを解決してくれる、単語です。

無類ってのは辞書ひくと、たくさん意味があるんですが、わたしは読んで字の如く、類がない、つまり世間の常識に縛られず、なんだか自由に生きてるわね、という意味ですね。

無類というのは比較考量の話ではなくて、とにかくいかにつまんない不自由さを自分で克服するかということに尽きるのですけどね。

不自由がいけない、ということとは違いますね。ある程度不自由なほうが自由ということはあります。つまり自分で「これは不自由」「これは自由」ということをちゃんと掴んで、それに対して行動する、ということです。
単に不自由とか自由とかを、どこかから取ってきたような常識から認識して行動したら、だから「バイクを盗んで走り出す」という世界と、それに無防備に共鳴して、実生活では愚痴や文句ばかり言うという、群集の一部になっちゃうんです。

あ、やっと突破系の話の枕まできました。

私事ですが、わたし小さい頃からの親からの厳令が2つあるんです。
ひとつはバイクに乗らない。
もうひとつは、利き腕(左腕)で人を殴らない。

理由は、親父の職業柄なんですが、バイクで若いのに命を落とした人間や、衝突接触事故によって半身不随などの後遺症で人生を一転させてしまった同僚を間近にたくさん見たからだと思います。だからどんなに悪いことしてもいいですけど、バイクだけには乗らないでください、といわれ続けました。

もうひとつのほうは、突破系の話に関係ないので割愛します。(単に身体が大きくて基礎体力があったので、殴ったらオオゴトになっちゃうなということだったと思いますけど)

だからバイクにだけは乗るまいと思ってきたのですが、10年ぐらい前ですか。ある時ひょんなことから仲良くなった年上の人に、「あなたバイク好きでしょう」といわれまして、いえ乗らないんで分かりませんって言ったら、いやー絶対乗っていると思った、といわれたことがありました。

その人はちょっと変わった人で、社会人生活を送りつつ、ここでは書けないような非合法活動もしている人だったのですが、同じ人種だと思われたらしく、こう言われました。

「だってあなた突破系だものね」

バイクというのは空間を切り裂いて走る感覚で身体と機械が一体化して、それが快感らしいんですけどね。だいぶ力説されて、絶対乗るべきである、と言われました。

突破系、その人の印象と一緒に、頭から離れない言葉となりました。そして誰にも迷惑がかからないようになったら(両親が他界して、子供の養育が終わったら)乗ってみますかね、と密かに思っています。まわりにも不思議とバイク好きっていないんですよね。バイクに乗るか乗らないか、の境界線ってそんなに、何か特別なものがあるのでしょうかね。よく分かりませんが。

例えば、私のメンターの一人は過去に機動隊を突破したりしましたけど(笑)、何かを突破する、という潜在性を感知する何かがある。例えば10年前に、その人は、私の仕事ぶりとか立ち居振る舞いとか趣味趣向とかを見て、同じ突破系のニオイを感じてそう言ってくれたのだと思いますが、その何かって、何なんでしょう。

いずれにせよ、世間の何ともいえない閉塞感とか、それを誰かなんとかしてくれ感とか、うーん、どうなんでしょって感じがありますが、今は特に「突破系」という言葉が、とても重要な意味合いのような気がします。

今の自分の価値をある程度方向づけている無類とか突破系という言葉とラディカルな類型について、少し考えてみたいですね。