スポンジとダイヤ

「スポンジ」人間、って、たまに見かけます。見かけると近づきます。

わたしはオミズの中の生き物なので、存在がスポンジであることは、ある意味必然でもあるわけなんですけど、スポンジであることで、時には人に恐怖と映るようです。

だって、殴っても手ごたえがない。どんなことにも反発ではなく吸収の運動体ですからね。アメリカ人はタコとイカが嫌いだといいますけど(笑)、同じ部類の恐怖ですかね。

最近子供の殴りあいの喧嘩ってなくなってきてるみたいですけど、一番喧嘩が強いのは、相手を倒す能力よりも、倒れない能力にあると思うのですが、それはまあ人生そのものですかね。

柔道で「受身」ってのがありますけど、小さい頃オヤジによく受身の大切さって教わりました。つまり相手の攻撃を吸収して、衝撃を最小限に食い止める、ということの訓練ですね。
あと「騙すより騙されろ」とか言ってましたけど(笑)、それがいいか悪いかは別ですけど、それをずーっと繰り返していくと、実存はスポンジ状になる、というのが実感です。

スポンジ人間にないのは「拒否」と「反発」です。昨日書きとめた「少数派工作」の話でいくと、誰にでも分かる、わかりやすい反応や行動をしない、ということですかね。

昔「NOといえない日本人」という本がバカ売れしたことがありましたけど、「拒否しない」「反発しない」はNOといえない、とは違います。NOと言わないといけない状況(追い詰められた状況)をそもそも作らない、ということです。

いつもニコニコしていて、いつもどこか冷静で、謙虚で、多少のことでは動じない。身近にそういう人がいたら、きっとその人はスポンジ人間である可能性が高いです。スポンジ人間をどうにかしたろうか、というのは徒労なので、関わらないか、親和したほうがよい、と思うわけですけど。
で、スポンジ人間である人は、関わりを避けられる孤独と共存できることが大切かと思われます。

倒れない、スポンジ人間の弱点はなんでしょう?

思うに、吸収できる「水」を超えて吸収しようとしたときですかね。汚水でも清水でも聖水でも(笑)、なんでも吸収しますけど、スポンジだから「これ以上吸収できません」というのは、吸収してみないと、わからない。
あ、これ以上無理だわ、となったときは手遅れの時が多いですね。命とられるようなトラブルになることもあって、でもそれを乗り越えると、スポンジの性能は、また良くなる、の繰り返し。

ですけど、あまり生死は彷徨いたくないので、こうやって毎日ブツブツモノローグで「己のおろかさ」を計り、毎日水の中を浮遊していく自分を捉え知ろうとするという作業を繰り返すのかもしれません。

吸水性の物凄い高いスポンジ人間でも、硬化トップクラスのダイヤモンド人間でも、まあ、それを貫いてさえいれば、どっちも好きですけどね。