WBCとシティポップブームに想フコト

WBCとシティポップ

ちょっと前から活躍しているスージー鈴木さんてライターの方は専門が野球と昭和ポップスで、双方の分野で専門誌や新書で面白い論考書く人なんですが、あたしより7歳ぐらい上なのかな、大谷選手ならぬ二刀流ライターの大器晩成に影響を受けたわけじゃありませんが、今日は野球と音楽の話です。

WBC2023、あたしゃ先週草津温泉に仕事で出張してたりしてリアルタイムで見てはいないんですが、関連ニュースなんか見ていて感じるのは、「イノセント」な価値観が世の中に戻ってくるかもしれないという実感です。イノセントってのは純粋無垢というような意味合いですけど、あたし的に言えば「バカも突き抜ければ芸」のことです。

野球に限らないプロスポーツや、商業音楽を含めた芸能事は「興行」が基本ですから、当然それを職業としている人にとって、競技や芸事は「しのぎ」の道具になるわけですけど、大谷選手をはじめとするWBCのチーム全体に漂う、シノギではなくイノセント、利己より利他、純粋無垢な野球小僧の集まり感てのが、まさに世の中に感動とリスペクトの輪を大きくしている気がします。

ダルビッシュ選手がこの10数年でヤンチャから求道者に人が変わった、なんて話も、まさにシノギ世界からイノセント世界に移行することそのものですし、栗山監督を含む、そういうシノギの世界も知る複雑な先輩や管理者が大谷選手のようなひとを守るからイノセントな世界観が成り立つのもまた事実ですね。

一攫千金や有名性(モテ)を求めて、みたいなシノギ価値観は、例えばいまも若者がYouTuberを目指す、みたいな感じで、いつも主流としてあるわけですけど、ネット社会化から20年、二次元で効率とか合理性でラクして稼ぐことを覚えた世界は、情報資本主義が頂点を極めていく中で、身体的鍛錬を含む長い時間をかけて技術や知識を習得していかないとならない野球等のスポーツ、音楽等の芸事は、シノギを得るには対費用効果的に非効率だということに徐々になってきて笑、スポーツや芸事に属するプレイヤーにシノギ至上主義がいなくなってきてるんじゃないかと思ってます。

加えて、その優秀なプレイヤー及び興行に群がる輩の皆さんが、市場縮小でカネにならないと踏み、プロスポーツや芸事の世界から退却していくので、プレイヤーがシノギ価値観に駆逐される確率が減り笑、故に、野球で言う栗山監督、サッカーで言う森保監督、あるいは音楽で言えば細野晴臣山下達郎のような人に分野の先導者の役回りがきて、若いイノセントプレイヤーを守り、大きな影響を与え育て、その道を素直に追求することができる、つまり、本当にそれが好きなヤツだけが残る、という流れがあるように思います。

音楽の話に移ると、もう世界的潮流としてブームは去ったと言われるシティポップ、その源流となる70年代のイノベイター達も、WBCのチームみたいにイノセントの塊でしたよね。内田裕也シノギの世界の対極で、邪念や欲のあまりないところで作られた音楽が、いま世界中の好事家から再評価されるのも、たぶんWBCの盛り上がりと同じ原理なんじゃないかと思ってます。シティポップとして括られる音楽群にシノギ世界のものがないとは言いませんけど、元々はイノセント世界から発明されたものなのは事実ですから。

そのシノギからイノセントへ、の流れの一方で現在、シノギの極地とも言える欧米の投資銀行が破綻したり金融不安が広がっているのが同じ時に起こっているのも、この話の流れからすると眩いコントラストで、カフェオレのような世界ですな。

少子化で、プロスポーツも芸事も、今後国内興行としては成り立たなくなるか、より縮小均衡を余儀なくされていくわけですけど、パイが狭まっても好事家マニア内で閉じて完結してれば良いかというとそんなことなくて、優秀なプレイヤーが育たなくなって減り続けていくので、いずれ国内だけではその世界が商業的には終わっていくことになります。だからもう、世界でひとつの市場とみれば良いだけだということをWBCもシティポップブームも暗に教えてくれているわけですけど、細野晴臣山下達郎と、内田裕也矢沢永吉を比較するまでもなく、世界評価はシノギの方々は得るのが難しいので笑、どの分野もイノセントだけが生き残るということになっていくように思います。

細野晴臣さんは、YMOを発案した時、坂本龍一高橋幸宏とコタツを囲んで蜜柑をたべながら、日本で3,000枚でも、世界各国のマニアが3,000枚づつ各国で買えば食えると説明したそうですが笑、そういう世界に50年経って戻ってきて、ネタではなくベタな現状として、三次元世界のスポーツ芸事各分野、いよいよそんな感じになりつつあるのかもしれません。

政治経済に期待出来なくても、文化に社会のパラダイムシフトを起こせるチカラと可能性を秘めていることを野球にしろ音楽にしろ明示している気がしますし、圧倒的多数は消費で終わっても、消費の向こう側にひとりでも今回たどり着き、そのイノセントに触れるのなら、あたしは世界に希望を感じますし、ムスメたち以降の世代が羨ましくもあり、楽しみでもあります。

最後に。

上述のようなことを考えまとめながらWBCのテレビニュース観てたら、日米のレギュラーを「年俸」で比較する、みたいなこと、わざわざフリップ作ってやってて、その新しい潮流としてのイノセントな野球の姿と、旧いシノギ価値観目線発想のテレビ、というかマスメディアの終末観のコントラストにも目眩がしました。笑

ということで、今日はまた地方都市におりまして、遅めの昼にホワイト餃子を食べたあとの殴り書き失礼しました。帰京します。

1973年デビューのディーバたちの50年後に国際女性デーだからというわけではないが敬意を表すの巻

今朝の新聞一面広告、高橋真梨子さんがペドロ&カプリシャスの2代目ボーカルとして[ジョニーへの伝言」でデビューして50周年だそうです。ということは必然的に五輪真弓吉田美奈子荒井由美も50周年ということなんですが、確か「ジョニーへの伝言」は発売時は大して売れなくて、次の「五番街のマリー」が売れてから後追いで売れたとどこかで読んだ記憶があります。チェッカーズの「ギザギザハートの子守歌」が「涙のリクエスト」のヒットで後から売れたのと同じで、でもそういうことは歴史上忘れ去られがちです。ちなみにペドロ&カプリシャスの初代ボーカルは前野陽子さんですが、あたしは高橋真梨子さんの「桃色吐息」よりも、前野陽子さんの「スペースコブラの主題歌」のほうが好きでした。(笑)
 泉麻人さんのニューミュージックコラム本を読んでいたら、当時リアルタイムの音楽マニアの中では、70年代初頭の、ローラニーロやキャロルキングの名盤「タペストリー」のヒットの流れで出てきた和製女性ソロシンガーという位置付けの三大噺は「五輪真弓吉田美奈子中山ラビ」だったそうで、五輪さんの当時のバックバンドは大村憲司高水健司村上ポンタ秀一からなる関西リズムセクション吉田美奈子とラビさんはキャラメルママ系統が後ろ盾でしたから、この三大歌手は当時のシーンの先鋭だったわけで、ユーミンはもうちょっとメジャー寄り、そして高橋真梨子さんはもっとメジャー寄り、という位置付けだったのだろうと思われます。なんつっても高橋さんはその前にスクールメイツにいた時代もありますからね。(笑)素行不良で即クビになったそうですけど。
だから、単純に1973年デビュー組といってもその後も含めて色々あるなあという感じで、デビューがちょっと遅い中島みゆきさんや大貫妙子さんも含めて、みなさんいまでもシーンに残っていらっしゃって、こうやって新聞一面広告ですから、素晴らしい。
高橋さんは数年前に新聞に回想録が出ていて、添付の1968年のハコバンのボーカル時代の写真が印象深いです。
1968年というと、はっぴいえんど前夜で松本隆さんと細野さんは青山コッチや新宿パニックといったディスコでハコバンやってた時代ですから、高橋さんも同じ時期、東京と九州ですけど、そうやって下積みをしていたわけで、そう思うと、高橋さんのこの50年の力強さが分かる気がします。前川清さんも同時期、長崎でハコバンのボーカルやってたそうですけどね。細野さんの青山コッチの思い出として、デビューしたての森進一が遊びに来て、白目向いて踊ってたというのも語り草です。
それまでレコード会社や専属作家専属歌手制度をもって、なんとかオーディションとかって、つまり上からピックアップされてデビューしたわけではなく、インディーズの下積みから出てくる、というのの最初はこの70年代前後からなんですけども(GSの時代もまだレコード会社主導でした)、やっぱりそのフロンティアの人たちの、演歌系の人たちの苦労の仕方とは違った自負や力強さみたいなものがあって面白いです。
どうやら吉田美奈子さんもライブ活動を引退するとかいう話も聞きますし、この広告見ると高橋真梨子さんもライブ活動は昨年が最後だったようですね。
ところで、あたし「高橋真梨子」というと銀座や赤坂や湯島など、自分が出入りしていた夜の街のクラブやスナックを思い浮かべます。あたしはプライベートではそういうところに好んで出入りするタイプではないですから仕事の接待だけで接するその世界で、歌がうまいと評判のチーママにカラオケをリクエストすると歌うのは高橋真梨子、というイメージ。(笑)ちなみにのど自慢の常連男性客が歌うのは鈴木雅之(笑)、つまり「平成の二大ムード歌謡」ですね。
吉田美奈子山下達郎をスナックで歌うとドン引きされますから(笑)、同じ「夜の街の住人が愛する歌」といっても。BARとスナックという娑婆の違いで全く違う。そこに出入りする人間の違いを分析した文化人類学の本はないんでしょうかね。(笑)
先週、J-WAVE坂本龍一さんの番組が終わりました。病気療養中の教授に代わり、最後のナビゲーターを務めたのは大貫妙子さんで、あたし大貫さんが最初にかけた「都会」で不覚にも泣いてしまいました。(苦笑)教授の弱り、大貫さんの凛とした、しかし静寂を味方につける声と雰囲気、「都会」が表現するメロウ、の完璧な重なりに、ああ、日本のポップスの一時代、この50年の時代が終幕するなあという感慨に急に襲われたのでした。
女性ではあとユーミン中島みゆきがいつまで続けるか、男性では桑田さん細野さん達郎さんですかね。中島みゆきさんと細野さんは自分で終わりを決めて、かつフェードアウトでも誰も文句言わなそう(なほど気まぐれなイメージ)ですが笑、ユーミンと達郎さんと桑田さんは、どうもそうはいかなそうな感じがします。
今日は国際女性デーだそうですが、女性デーに、「自立する女」の先駆をつけた1973年デビューの女性ソロシンガーの皆さんに敬意を表するというキレイな流れ、偶然ですけど。笑、



レクイエム続く2023年~バートバカラックを偲ぶ

バートバカラックが大往生でお亡くなりになりまして、レクイエム多き2023年となっておりますが、1月にお亡くなりになった大物ミュージシャンたちに負けず劣らずの追悼の雨に少し驚きました。
 
あたしも勿論後追いでバカラックミュージックを聴いた口で、リアルタイムでは、例えば90年代の、渋谷系からクラブ系、そしてモンド系と流れていく流れの中に、バカラック要素はふんだんに盛り込まれておりましたし、それらの音にあたしらの世代にもどこかしら耳馴染と郷愁が感じられたのは、60年代後半から70年代の歌謡曲で、筒美京平先生をはじめとする服部良一系譜の作編曲家の皆さんのバカラックに影響を受けた諸々の仕事があることが後から分かったりと、バカラック包囲網というのが目に見えずに張り巡らされていたことに気付かされる、ということで、みなさんの追悼の多さに繋がっているのかもしれませんね。
 
 確か大瀧詠一の義理の息子(ムスメ婿)の坂口修さんは日本のバカラック研究の第一人者だったと思います。グレンミラー楽団なんかでも、聴き返してみて思うのは、やはりアメリカの良い時代(40~50年代)の音楽に潜む「ユーモアと余裕」で、それは音楽に限らず、自分の仕事でも同じで、「ユーモアと余裕」を持って出来るように自分を整え、経営者としても環境を整えるわけですが、現代と同じような「暗く長いトンネル不況」「テロ、事件、災害」にあえいでいた70年代の日本で、余裕とユーモアのあるルーツミュージックたちに刺激をうけた大瀧さんや細野さんが、アメリカンポップスのルーツをたどり、自分の作品に投影していたことの、周囲からの「孤立」「変人扱い」について、改めて思いを馳せるのであり、「あなたには悩みというものがあるのですか」と70年代に大瀧さんのラジオに投書が来たという与太話を思い出しつつ。
 
バートバカラックのご冥福をお祈りします。

鮎川誠さんを偲ぶ

海外国内、音楽関係者の訃報が多すぎて、レクイエム続く1年のスタートですね。

鮎川誠さんがお亡くなりになられたのですが、今朝の朝日新聞では社会面に割と大きな扱いを受けてました。朝5時のNHKのニュースでも取り扱っていて、あたしはシナロケの世代ではないので、故人に失礼ですが、正直少し意外でした。

新聞の評伝には「サンハウス」から「めんたいロックムーブメント」そして「シーナ&ロケッツ」までが書かれているのですが、おおよそサンハウスやめんたいロックが全国紙の社会面に書かれるほど一般性があるとは思えず、記者にお好きな人がいるんでしょうね。

幸宏さんに続き鮎川誠さんまで、細野師匠、がっくりされていることとお察し申し上げます。

細野さんの回りに集まってくる人の中に、実は細野さんと同じタイプ、自分の気まぐれ感性のままに音楽を作る人は少なくて、ひとつのことを貫いて、70年代の初期衝動をそのままやり続けているという、細野さんの対として存在しているような人が多い気がします。久保田真琴、鮎川誠、忌野清志郎、そして大瀧詠一山下達郎

あたしはよく細野さんを長嶋茂雄に例えて、大瀧さんを野村克也に例えるんですが(笑 数年前の該当つぶやきはこちら→)

 

みんな細野さんの天才性を観て、自分の行くべき道を定めたんだと思います。やはり戦後の日本(いやもしかしたら世界的にも)大衆音楽史は細野さんを一つの軸に語るというのが、後世の歴史家のひとつの方法論になるんじゃないですかね。(笑)

同じく天才と言われた、故人となった希代のキーボディストマルチ音楽家佐藤博さんと細野さんの対談で、ギタリストの山岸潤史さんに触れるくだりが残されています。お二人とも(自分たちとは違う在り方を追求した)山岸さんに敬意を表し、ウエストロードブルースバンド⇒ソーバットレビューの後、単身ニューオーリンズに渡り、ニューオーリンズのブルースギタリストとしてずっと道を掘り下げ、名を上げた山岸さんに対して「ああいう在り方は自分にはできない」とおっしゃっていました。

70年代初頭の、東京のシーン、名古屋のシーン、大阪京都のシーン、広島のシーン、そして鮎川さんのいた博多のシーン、それぞれでGS後の日本語ロック黎明期が勃興するわけですが、あたしは90年代初頭のアンダーグラウンドテクノムーブメントが「東京、大阪、福岡」で同時多発に勃興して、世界中の国と都市名で結びつく音楽シーンを「新しい」と思っていましたが、なんのなんの、70年代初頭に都市文化は勃興し、70年代中盤に東京はニューオーリンズという地域性と結びつき、「ナイアガラムーン」や「泰安洋行」の名盤を生み出し、山岸さんのような人をニューオーリンズに送り出すという、そういう歴史の繰り返しだったことに改めて気づかされますね。

 

鮎川誠さんは三姉妹の父親であるところはあたしとの共通点です。身近に3姉妹の父親というのを数人知っていますが、人間的な共通点というのがあり、逆に男子3人いる父親も数人知っていますが、こっちはかなり大きな性質の違いもあり、どっちも酒の肴にするには面白い話なのですが、それはまだ後日。(笑)

 

鈴木邦男さんを偲ぶ

レクイエムは鈴木邦男さんです。

あたしら世代の、特にサブカル都市民の必読書として90年代に君臨した週刊SPA!の連載が出会いだったと思いますが、SPAと共にTVブロスが90年代カルチャー系若者に果たした役割は、60年代カルチャー若者における平凡パンチ朝日ジャーナル、70年代カルチャー若者におけるホットドックプレス、80年代カルチャー若者における宝島やビックリハウスなどと同等に、そろそろもう少し考察されてもよかろうと思うのですけど、まあそれは置いといて、鈴木邦男さんです。

あたしはとにかく人と徒党を組んだりつるんだりするのが嫌いで、脱権威で自由を好みましたので、左右双方のイデオロギーの内容や現象には興味があっても、それを支える集団や構成員にはいっさい興味が湧かないタチなのですが、鈴木邦男さんを知ることで右翼のイメージはパラダイムシフトしましたし、左翼も同じように理解するようになり、実は右も左も「憂国の徒」と言う意味合いでは同じであり、右と左は直線ではなく、円を描いて繋がっていると言う世界理解をするにいたるのであり、それは例えば戦後歌謡における古賀政男服部良一ビートルズで言うジョンとポール、はっぴいえんどで言う大瀧と細野、boowyで言う布袋と氷室の笑、理解に繋がっていくわけで、鈴木邦男さんがあたしに与えた影響は甚大です。

時の首相が「聞く力」とか、阿川佐和子さんのベストセラーから代理店が参照してきたようなキャッチフレーズを申しておりますが、本来的な意味で聞く力は鈴木邦男さんのような人に宿っているのであり、それは吉田豪さんあたりに系譜として引き継がれたように思いますが、鈴木邦男は代理店は参照しないでしょうから、それは残念でなりません。

とにかく佇まいが素敵でした。佇まいを褒めるのは、鈴木邦男さんとナンバーガール田渕ひさ子さんだけです。笑

内田樹さんの文章が、鈴木邦男の佇まいを一番よく表現していると思います。

http://blog.tatsuru.com/2023/01/27_1630.html

「独立独行の人」との若い頃の出会いを用意してくれたSPAには感謝しかありません。それが無ければ独立独行を志すことさえ出来なかったのかもしれませんから。

ご冥福をお祈りします。

高橋幸宏さんを偲ぶ

つい一昨日、地元のソウルバーのマスターと、ジェフベックやプレスリーのムスメのレクイエムを語っていた流れで、教授とユキヒロさんの状態の悪さと、もしかしたら…という話をしていたばかりなんですが、いつものように5時に起きたら高橋幸宏さんの訃報でした。なんか年明けからふと予感があって、YMO聴き直したりしながら、2人の安否を気にしてたんですが。。人間の五感を超える何か、に思いを馳せずにはいられません。

 

あたしはYMO直撃世代ではないのですが、あたしの最初のアイドルは元妻の中原理恵さんでしたので、幼いあたしのかすかな嫉妬から始まり笑、習っていたエレクトーンでYMOメドレーもやりましたが、高校の頃スカパラの初代ドラムの青木さんの尊敬するドラマーとして、というのが最初のリアルタイム認知だったのかもしれません。青木さんとのツインドラム目撃した記憶があります、

 

あたしの高橋幸宏さんへの気持ちは数年前に呟いた添付のツイートが全てです。トリオの三番手認知がずっと抜けてなかったですし、70年代の演奏家優位時代、手数の多さや複雑さを競うフュージョンブームの中、サディスティックミカバンド時代の加藤和彦さんあたりからの影響も大きかったんだと思いますが、林立夫さんより更に無駄を削る東京ドラムスタイルが結果的には早すぎたニューウェーブとなりましたし、70年代東京ドラムスタイルはティンパン系の流れでいけば林立夫高橋幸宏青山純と受け継がれ、いまやポップスはすべてそっち寄りですね、とか書くと、つのだ★ひろさんに、また俺たちの流れを無視するのか、とへそ曲げられますけどね。笑

 

YMOは、細野さん構想で最初は佐藤博林立夫で、2人に断られ、故村上ポンタ秀一にドラムは誰がいいか相談して、ポンタさんが細野さんに幸宏さんを推薦したという逸話が残ってますけど、音楽的なこともさることながら、デザインアートワーク、ファッション面は幸宏さん無しには出来なかったコンセプトでしたし、代名詞のライディーンは幸宏さんの作曲ですし、YMOの歌、通称「フーマンチェー唱法」は、幸宏さんの発明でソリッドステイトサバイバー以降のYMOの可能性を拡げたでしょうし、あたしはYMOブレイク後、教授が神経症になって活動できなくなり、細野さんと2人で頑張ってた頃に、ウルトラヴォックスに影響されて作ったと言われる「CUE」がその唱法のピークだと思いますが、幸宏作品で一番好きなYMOの作品は「中国女」です。あのペコペコペコペコというチープでフラットでシンプルなリズムパターンとブレイクで入る3連符6連符を組み合わせたおかずのセンス、いつ聴いても素晴らしい。

中国女といえば、昨年ゴダールが亡くなったばかりですが、YMOのファーストアルバムのB面に収録された、こちらも通称「ゴダール3部作」と言われる「東風」「中国女」「マッドピエロ」それぞれ教授、幸宏さん、細野さんの作曲ですが、ゴダールYMOに繋がる因果の糸が死期にまで繋がっているとしたら、同じく療養中の教授の快方を願って止みませんし、細野さんや達郎さんの剛健ぶりに改めて敬意を表しつつ、おそらく本日、音楽に限らず全ての日本の昭和サブカルチャー野郎の源泉のひとつであるYMOの腕がもぎ取られたことによる、思ったより大きな衝撃があることを予測しつつ、レクイエムでございました。

返礼返礼また返礼に考える形式主義を超えた先にある普遍性について

最近は壁掛けカレンダー作って配る法人も少なくなってきたようで、直接にせよ、手紙付き郵送にしろ、渡す先々で有難がられた昨年末でした。
 
お礼にすぐ電話いただいたりメールいただいたり色々ですけど、返礼品をいただく場合もあります。本日香川からミカンが届きまして、個包装されたみかんが3キロ…。カレンダーが、個包装された香川ミカンになって返ってくるというのは、お気持ちは大変有難いのですが、わらしべ長者風情が過ぎるので、品定め熟慮の末、返礼の返礼として巣鴨大塚で戦前から営業を続ける「千成もなか」さんのモナカと栗どら焼きを関西四国方面に先ほど手配しました。
 
 このまま返礼返礼また返礼となっていくパターンも色んな御仁と過去何度かあるわけですが、それはそれで楽しく、利害を超えて長く繋がりを持ちたいと思う人たちと、そういう気持ちのやりとりを重ねていくことのノンストレスさに染み入る一方、昨今の形式主義的な文化風習の衰退及び飲みニケーションとか言う場や夜の街文化の衰退などに見られる、ストレスフルな非合理は全てやめてしまえ感がコロナで強調される社会において、もし後者に、形式主義的なストレスを超えたところに、いつでも無条件に嬉々として繋がりたいと思う他者が不在で、目の前にあるのはスマホ画面と溢れる情報、そしてフルコントロール可能で予定調和のひとりの自由、のみであるならば、それは旧いシステムの非合理性とかいう理屈の前に考えなければならない普遍性もあるように思います。何故なら、すべてはカネと消費で解決できるという幻想の時代は、もうあとそう長く続かないように思うからです。
 
成長は、自分をあらぬ場所に連れて行ってくれる師の存在や、新たな気づきを常に与えてくれる友、親しき中にも何とやらの距離から豪速球を次々と投げ込んでくる家族との、ヒリヒリする、そして癒されもする、長きに渡るコミニュケーションの積み重ねなくしてなしえないと思いますが、成長拒否もひとつの選択である現世において、最近手に取った「負け犬の遠吠え」で有名になった酒井順子さんの最新エッセイ本のタイトルが「ガラスの50代」であるように、成長拒否はガラス細工の繊細さを温存してしまいがちで、10代のガラスは美しく儚いけど、50代のガラスは単に厄介だなと思いますし、雑に扱われてもニコニコしてる呑気バカな初老を目指したほうが健全だと酒井さんの本読んでて改めて思いました。笑
 
成長とは、万物との、敬意と愛情をベースにした長きに渡る対話である、と示した名もなき多くの先達に思いを馳せたり、馳せさせかけたり、馳せかけさせまくったり、と大忙しの昼下がりでございました。