筒美京平、逝く

出先に移動中に筒美京平センセの訃報を知りました。80歳。誤嚥性肺炎ですか。うちの親父と死因同じ、ということは最後寝たきりだったんでしょうね。

筒美京平センセで思い浮かぶことはたくさんあるんですが、次の4つがパッと頭に浮かぶので、追悼に書き残しておきます。

・2000年頃に発売された筒美京平BOXのブックレットに大瀧詠一さんのインタビューが掲載され、筒美京平とは何か、と聞かれ「筒美京平とは戦後歌謡の2つの流れ、古賀政男服部良一の両性具有の存在で、時代的にどっちもやらなければならなかった存在でした」と語っていたこと。

松本隆さんが「木綿のハンカチーフ」の歌詞を書いた時はまだドメジャーな作詞家ではなかったけど、本格的に歌謡界に入る時期で「この詩に曲をつけるやつが歌謡界にいるのか」と半ば疑っていたところ、筒美京平がいともかんたんに曲をつけてきて、アングラのプライドを捨て、歌謡界に本格的に参入することになったこと。

ビートたけしのANN初期の暴走期に、恋のぼんちシートの曲の洋楽元ネタを見抜いてラジオで暴露し、近田春夫さんに直接謝罪させたあげく「そんなすぐ認めちゃうようじゃ筒美京平のようなパクリのメジャーにはなれないぞ」と近田さんに毒づく、という場面を小林信彦センセが聴いていた、と本に書いてあった。(笑)

・まだ現役バリバリの70年代後半から、京平センセは作曲に専念し編曲の席を空け、そこに若手の編曲家をたくさん登用したことにより、日本の編曲レベルが上がり、かつ世代交代も実現した、と、船山基紀さんがdommuneで語っていたこと。
シノギを削る業界特有の、若い才能の芽は摘んで回っていた人が多かった中、こういうオトナの余裕、懐の深い「席の空け方」をしたのは筒美京平ぐらいじゃなかったのかしら。

あたしの世代ですと、受動的じゃなくて主体的に音楽に手を伸ばすようになる頃から考えれば、例えば松本伊代「センチメンタルジャーニー」あたりから始まり、齊藤由貴、中山美穂、CCBなど、80年代中盤、小学校高学年に松本隆筒美京平コンビの作品を浴びて育ち、少年隊の「ABC」でひと区切り、とそういうイメージで、、あたしテレビの歌謡番組見なくなるの、たぶんそのABC辺りじゃなかったかと思うんです。中1ぐらい。

つまり、筒美京平多作時代の最後と、あたし自身の「流行りの曲をとりあえず聴く」の終わりは重なってるんですね。図らずもですけど。

ついでにこれも図らずも、ですけど、嵐5人が活動休止が決まった後、活動を振り返って、ターニングポイントの曲にABCをサンプリングした「a day in our life」をあげているのをいつぞやの特番で見たんですが、いまやキンプリまで続く、ジャニーズの王道であるメジャーコードで押すキラキラソングのフォーマットは松本隆筒美京平がABCで作ったと言えると思っていて、嵐の終わりとジャニーさんと筒美京平のご逝去が重なり、より、「イチ時代の終わり」感がハンパない気もします。(ちなみにジャニーズを「パねえジャパニーズ」と表現したのは菊地成孔さんです。(笑))

最後に、あたし自身の私的筒美京平といえば、榊原郁恵「ROBOT」。その後席巻し、現代のperfumeに続く「ジャパニーズテクノ歌謡」の起点のひとつ。これを筒美京平BOXを買って初めて聴いた時に、音楽仲間に会えば常にその話をしていた思い出があります。当時やっていたバンドの出囃子にも使ったぐらい好きでした。

ということで、ご冥福をお祈りします。

https://www.youtube.com/watch?v=8SxNm1XQHf8