いらいら

虚構と現実の区別がつかない、なんてゲーム規制論みたいですが(笑)、昨日のような感じでふと昔のことを思い出してみると、この「想像の世界に深く入り込む→自分でそういう環境を作ってみようとする→戻れなくなる」というパターンてありますね。

想像力の憧れの世界を追体験して、自分でその状況をある意味喜び、戻れなくなって、自己崩壊する。特に情愛の世界だけに限らず、モラトリアムといったことが、わたしらの頃まではありましたね。それで自己崩壊していく人もたくさん見たし、当時モラトリアムでも今は復活して現実とキチンと対峙できてる人もいるし、いろいろですけどもね。

いまとなっては、物語の中に自分を投影して、そこから戻ってこれなくなる、という経験は、したほうがいいの?しないほうがいいの?という問題がまずあるかもしれません。

わたしは、昨日の文学全集ではないけど、オヤジの本棚にある本を片っ端から読んでいったので、そこには子供には刺激の強い情報もたくさんあったし、他にも友達の兄姉とか、近所の悪いおにいちゃんとか、そういうところから、情報を引っ張ってきてましたね。

今はインターネットがあるので、労せずそういう情報にはアクセスできちゃうし、安田さんのSMすないぱーで始まった連載対談にも書いてありましたけど、想像力を要せず、モロ局部にアクセスできてしまう状況がエロを殺してしまったという話ですが、確かに、オンナノコを初めてハダカにさせるときのドキドキさや神秘性といったことに、今の人たちはどこまで想像の風船を膨らませて臨むんでしょうかね。

そういう意味でいえば、今うちのコドモを見ていると、ずっとママゴトをしている、という状態があります。いろいろ親に話しかけてくるんですけど、実際に存在しない、想像上の友達の名前を言って、昨日遊んでさ、みたいな報告をしてきたり(笑)、コドモの言説って、物語と現実を行ったり来たりしています。

わたしそういうのは、「へーそうなんだー」といって「その子どんなこ?」って言って、その想像力を膨らますとかしながら、それを放っておくんですけども、それをもしコドモがまわりに言っていたとすれば、ただの虚言癖になってしまうだろうと思うのですが(笑)、コドモって、でもそんなもんかなと思います。

そういう状態で、コドモ時代にずっと物語に触れていって、自分の現実でも物語が増えていく。現実に体験する物語と、想像の物語を両方持って人間は大きくなっていくんだと思いますけど、その「体験する現実」と「求める虚構」がだんだん乖離してくると(頭でっかちな状態になると)、求める虚構に偏って、昨日の話みたいになってきちゃう。

人の話を聞いていて面白いなと思うのは、わたしとても不幸なんです、とかドラマチックな人生なんです、とかわたし変わってるんですよね、とかって自分で言っちゃう人っていうのがいて、でもそれを嬉々として人に公表できるのはなぜかというと、求めた虚構の世界を、現実に体験しようとして、程度の差はあれ体験できたという達成の構造があるからですよね。

本当にトラウマになっているような出来事を、ふいに体験せざるを得なかった人の苦しみは、それとは違うものです。それはおいそれと人に言えないし、そういうことの苦しみを目の前に感じたら、だから黙って抱きしめてあげるとか、そういうことしか、できない。

おそらく文学って、その為に機能してきた部分って、あったんだろうと思います。(人民の1%を文学が救うって、そういうことですかね)

だから、きっとその80年代から90年代にかけてわたしのまわりに存在したハルキストとか破滅願望系のオンナノコなんかは、求める華やかな虚構と退屈な現実のギャップを埋めることを、過激な虚構を「追体験」することで得ようとしたですかね。「普通と退屈は、悪である」という感じで、それを虚構で埋めようとした。

わたし読んでないですけど、ハルキ文学って、きっとその社会を予見した内容を書いているのでしょうから、「あ、これボクだ」とか「ボクこんな風になりたい」いうことになって、これ構造的にボク(または願望)なんだけど、ボクの現実はこんなドラマチックではないし、出来事に溢れていない、ということになって、そのドラマや出来事を現実に希求するようになる、と。

前に青山さんの「ユリイカ」という映画が、同時期に起こった九州のバスジャック事件と内容が一緒だったみたいなことがありましたけどね。そういう時代感染、みたいなことって、不思議ですけどありますよね。

想像力が現実を超える、逆に現実が想像力を超える、90年代は確実に後者でしたけど、ユリイカの話なんていうのは象徴的だったかもしれません。

そしてハルキ文学は90年代後半、ドキュメント(現実)へと向かっていったということですよね。

そういうことになっていく過程を考えていくと、ムラカミハルキさんは、常にその時代感染ということにとても敏感な作家さんでしょうから、だから逆にわたし同時代人のハルキストに思うのは、そのボクを追体験するというのは、「遅れて時代に感染している」ということでしょと、そういうことを感じてたと思います。

別に遅れることは悪くもないですけども、同じ物語に沈殿していくのであれば、出来れば同時代的なもので一歩時代の先を行く、前向きな想像力に(おそらく80年代前半のハルキ文学がきっとそうであったように)感染したほうがいいんじゃないのかなあ、と。

それが暗い未来の想像力であれば、それを克服することを考えるし、それが明るい未来の想像力であれば、感染していけばよい。

過去に学ぶことは大事で、ちょっと前の表象に触れることは無意味だ、ということではく、まずは現在(一歩先の感性)を感じて→過去を参照して現在の状況を分析してみて→未来を考えてみる、と向き合いの姿勢でないと、その行為は、「退屈は悪」からくる追体験オナニーの域を出ないというか、ですね。

何かしたい!けど出来ない!とりあえずオナニーっていう(笑)、その鬱屈の感じを「だったらやりゃいいじゃねえかよ」と見ていたということになりますけど、それは社会に出てからも(そしていまも)一緒ですかね。

昔から、いらいらしてますね。そういうオナニストとお話していると。(苦笑)

人の想像を超えたところに行きたいよねえ、なんちゃって。(笑)志だけは高く持ちたいところですけどね。

はっぴいえんどの「ゆでめん」の「いらいら」を鳴らしながら、書きました。