ゼロゼロジェネレーションズイマジネーション

という、わたしの弟と同じ歳の若手の批評家の話題作を、田舎に帰る道すがら、読了しました。先日のアサヒジャーナルからの流れです。

ここにもよく出てくるようなキーワードがたくさん出てきて(「断片」という単語がモロに出てきたのには少々驚きましたが)、同時代性を感じることが出来たし、自分の感覚が過去に閉じこもることのない、前に進む意識に少なからずあるということも、この近々の表現物から、感じることも出来ました。

ネットでフラグメントで検索すると、多くの同時代人の考えやコンセプトの商品やブランドに触れられて面白い、というのと同じ感覚ですかね。

昨日の話もしかり、日本は、時代は、次どこへ向かうのか、ということが分からず、今はどこにも行けない、でもこのままだと同じこと再生産されちゃうよお、というような状況があって、「次はここに行こう」というようなことを書いてある本ではありません。というか、そういうことはもう無理だし無意味だ、ということを著者も自覚しているのでしょうね。

その本も、きっとマックス読まれて5万人、という規模ぐらいでしょうか。昔、ミュージシャンは、5万枚レコードが売れればミュージシャンとして身が立つ、みたいなことを聞いたことがありますけども、5万人読んでくれれば、だから大したもんなんだと思うんです。

今ネット上に様々点在するプラットフォーム(広場)も、5万人集まれば、ある一定の影響力を持つ、と言われていますよね。(たとえば広告が成り立つ、とかね)

5万人っていうと、総人口のどれぐらいの比率ですか?凄い小さいですよね。その比率が小さいというより、世の中が大きいんだという風に考えたほうがよいということだと思うのですね。

わたしは専門のマーケッターではないので、おそらくマーケティングの領域では、こういうこと繰り返し言われていると思うのですけど、様々なコミュニティで、直接的に影響力のある人には、ひとり10人ぐらいの「取り巻き」がいるんだと仮定します。

なぜ10人かというと、わたし経験なんですけど、ひとりで直接信頼関係を築いて活動を行える数って、いくらハイパフォーマーでも7人〜10人、普通5人ぐらいだっていう感覚があるんですね。(だから会社はだいたい主任レベルまで役職作って多くても5人ひとまとめぐらいの単位にしますよね。)

わたし15人っていう無謀なことやっていた経験があるんですけどね。(笑)自分の時間ほとんどないですね。ちゃんと労務管理しようと思ったらね。今流行りのパワハラとかやっといて済むなら、暴動が起こっても阻止できる人数ぐらいまで膨張しても平気ですねきっと。(笑)

それで、影響力のある人っていうのは、わたしの考えからすると、先週の「狭く深く、時々広く」社会と接している人々のことに近い感じですけど、そういう人たち5万人に訴求できれば、10倍、つまり50万人の人には、訴求したことと同じという理屈でマーケティングしていれば成り立つ時代がおそらくあったでしょうね。そうすると比率はぐっと上がりますから。

昨今ぐーぐるの著作権の問題が取り沙汰されたり、音楽業界もCDが売れねえとかいって大変な状況がありますけども、その問題の本質って、この「取り巻き10人の法則」ではない、インターネットなどの通信革命によって、逆にある意味情報に関してあなーきぃな状況になってしまった。

例えば昔は3000円のレコードがあって、その情報に対して影響力を持つ一人が買って、これ聴け!って10人がテープにダビングしたとして、ひとり頭の単価は300円なわけですよね。今、例えばアルバム1枚のダウンロードって、そのぐらいの金額でしょう。(笑)つまり当時から値段が変わっていない。変わっていないけど、社会背景が変わっちゃったので、売上は10分の1になるし、著作権だって、逆にこだわっちゃうし、という感じですか。

影響力のある人ひとりに訴求する情報の流し方と、その人入れて、11人全員に訴求しないといけない情報の流し方では、質が違っちゃう。この30年で、ひとり訴求よりも全員訴求しなきゃダメっていう風になったんだけど、1人掴めば10人OKという時と同じ成果を得られるという情報の流し方の改革ができたのか、というと、それが結局成功しなかったということなんだろうと思うんです。

でもこれだけぽすともだんが進んで、その中で情報の流し方の失敗(とは言えないかな)があって、これだけ既成の社会が壊されてきて、おそらくもう一回コミュニティ再生論って、やっぱり今、一部で活発になってきている。

コミュニティ同士としての連携は、影響力を持つ人(私の言葉で言うと村長)が10人と情報を共生のために流す(そして村長は日替わりでもよい)、ということと、村長同士が概念で連帯するということの2重構造が重なって成り立っていくようになっていくんじゃないか、と、おぼろげながら考えます。

そこできっと大切なのは、影響力を持つ人(村長)の立ち居振る舞いだろうし、謙虚さだろうし、知だろうし、それは、たくさんの村長さんが自然発生的に立ち上がってくるのを期待するしかない(自分もセコセコ努力するしかない)というところが弱いところですけど、その弱さでもいいじゃん、というのが、わたしが繰り返し、時代を考える時に思っていることで、ここで散々うだうだと書き連ねられることの本質です、とまた繰り返し書くのでした。

だからその若い批評家の本でも、本文の膨大な努力の成果もありますけど、村民や他の村の村長さんの実名を上げて謝辞を述べまくる後書きに、その「これからの感じ」が一番あるんだろうと思います。後書きこそ「ゼロゼロイマジネーション」なんじゃないのかねえ、なんてことを思うのでした。