奉仕バランス

わたしコンビニでお釣りを受け取ると、端数(1円単位)が出た場合は、それを募金箱の中に入れます。これはもう習慣で、何の他意もありません。

それをするたびに思うのは、「あー、募金してよかった」という自己満足と、1円単位を管理しなくて済むという開放感。つまり公私益の一致点が、わたしにとっては、端数募金です。

ボランティアという「奉仕活動」を、表立ってわたしはやったことがないけれど、例えば人の悩み相談を受ける、とか仕事を工面する、とか、そういう類の「目の前の困っているその人をなんとか前向きにするための活動」はよくします。

それって常に、私益と公益が頭をもたげます。人間ですから。人のためになってよかったな、という公益の一面と、いいことしたから、どこかでわたしに何かいいことあるかしら、という私益の一面と。

その分岐点(一致点)で活動することが、わたしは健全で身の丈だと思ってます。

世にあるボランティアというので、この辺りを飛び越えちゃっている人をたまに見かけます。私益はないと言い切り、とにかくその人が喜ぶで「あろう」ことをやれば、それがボランティアであると。

でもここに、「被ボランティアの人」の気持ちが置き去りにされますよね。「こうすれば人は気持ちいいハズだ」ということで動いちゃうからです。

本来は、その人の気持ちを聞いてあげること、察してあげること、(多くはそのボランティアの対象となる社会的に弱い立場の方々の)小さいプライドを守ってあげること、その為にわたしに何が出来るんだろう、の順番なんですけど、そのあたりがないがしろにされて、わたしは何が出来るんだろう、が「常識的に活動として必要とされていること」に収まってしまう。

またはボランティアが集団活動であれば、その流れは加速して、もっと何かを強いられる状況もあるでしょうね。強いられて先鋭化したときの恐怖は、ここでも別の事象で、たくさん書いてきましたけども。

だからゴミを拾う、とか、環境保全、とか、対人ではない奉仕活動を集団で行う場合も、「わたし(たち)は常に正しい」となってしまう点で危険な面があると思います。

「人のお役に立ちたい」というのは、大切な思考なのですが、「人のお役に立つとは何か」から考えるのがオトナであって、こうすれば人は喜ぶハズ、といった行動は、子供のお使いと何ら変わらない。

それでも、何もしないよりマシだ、という議論があります。

おっしゃるとおりかもしれません。「でも」と。何かしたい、ということで手合いのよいソリューションに飛びつく自分は、充分自省したいところですよね。

前も書きましたけど、「世界平和を願う前に隣人を愛せよ」で、普段隣人といがみ合ってる人が、困ってる人助けるなんて、ちゃんちゃら可笑しい話だと思っちゃうんですけどね。

今ご隠居されたご夫婦とかで、そういった活動されている人とかを多く見聞しますけども、夫婦仲は家庭内別居状態なのに、お互い近隣の奉仕活動には精を出す、とかね。

それは家にいたくない(暇を潰す)が動機の一面にあるんでしょうけど、それを覆い隠すのに充分なのが「ボランティア」という大義名分です。

おとうちゃん、ご飯作りたくても調味料がどこに置いてあるか分からなくて困っているという、まずはその目の前で困っている人を助けろよおかあちゃん、と。(笑)

あたしは今まで散々ひどいことされてきたけど奉仕してきたのよこの人に。だから「仕返しよ」と。

もちろん、それまでのオトコがいけなかった面も多々あるのでしょうから、そのおかあちゃんにも同情する面がないわけではないですけど、でも、散々「ハズだ」で奉仕して、分かってもらえなかったから仕返しするんですよ。だから。

その意味で、ほんとに何もしないより、マシなんでしょうか。。(苦笑)
よく分かりません。