上位世代フェチ深耕

なんで上位世代と絡むことが面白いのかなあ、と寝ながら考えてみると、それはやっぱり「未知との遭遇」ではないのかなと思ってですね。

昔から、自分が生きるより前のこと、ってすきなんですよね。単純に言うと歴史が好きだっていうことになるのかもしれませんけど、これだと大きすぎて、もっと厳密に言うと、自分が生まれる「ちょっと前」のことが一番すきなんです。

「ちょっと前」というのは、どこからどこまでを言うかというと、「自分が生まれる一日前」から「今身のまわりで、話が聞ける最高齢の人が生まれた日」までなんですよ。(笑)

つまり、自分は知らないけど、それを知っている人がまだご存命である程度の時代、を知ることが特にスキなんですよね。

上位世代フェチっていうのは、自分は知らないけど、それを知っている、という意味で、上位世代は無条件で「スキ」で、そういう人たちについていくのかもしれませんね。「メンター(先達)」なんていう考え方も、そのフェチの延長線なのかもしれません。

自分で容易に想像がつかず、逆に言えば、「自分がそこにいたら、どうだろう」と妄想する楽しみができる。自分が生まれる前の時代観を、話を積み上げていくことで、自分の中で構築していく。「上位世代と話す」というのは、わたしにとってはそういうことですけど、文献から歴史を学ぶ、ということと違うのは「その目の前にいる人の口から経験として語られること」に重きを置くことですかね。

だから、もう今は誰も生きていないような時代のことは、教科書的「歴史」でいいっていうかそれしか知る術がないんですね。だってそれはもう消えてしまったことだから、「温度を持って継がれる歴史」ではない。

おそらくわたしのような、息遣いを持って語られる歴史に吸い寄せられる「上位世代フェチ」は、各世代にいるんでしょうね。仕事も社会システムも「マニュアル」の整備に忙しいですけど、最後はやっぱり「クチコミ」で何かは継承していく、と思うんですよ。

紙に書いてあることは、あくまで紙で、そこに書いてあることが事実に添ったものであっても、温度があって、皮膚で感じるものではない。逆に言えば「客観的事実」は歴史には存在していないと考えたほうかよいと思うんです。だから歴史というのは、ある人の中に作り上げられて人に語られたもの、にすぎないのでは、と。

上位世代の、時にかっこいい、時にかっこわるい、時に普通、時に過剰、様々な話を、自分の身体を通すと、体内の時間の軸幅が広がっていく。その悦楽に深くはまるだけでも、生きているのが、人と接しているのが、楽しくなるということは、今まではいえましたね。

縦軸ではなくて、横軸(国や地域)の広がりもあるのでしょうが、現代は今は地域性による経験の格差はほとんどないし、わたし外国語しゃべれませんから、外国の人と「未知」を求めた交流も出来ませんので、どうしても縦軸に偏りますね。
前にバイリンガルの人が言っていたけど、「外国語がしゃべれる」では横軸は広がっていかない。外国語で、自分のアイデンティティを公表できないと、軸幅を広げるような話にはならないようです。(って縦軸と横軸のバランスで反省しているバイリンガルの女の子偉いなと思いましたが)

将来的に外国語を話すということになれば、上位世代フェチは緩和されるかもしれませんが(笑)、ま、動機が弱いので、今のところ難しいですかねえ。

昨日の話の続きだと、わたしには次のステージとして直近にあるのは「紙の歴史、文字の英知」に挑む、というステージががあると思っています。30代半ばになって、ようやく紙の歴史に真摯に向き合う、ということが出来そうな気がしてきました。

ま、頭が悪いのでやること気づくことが遅いんですけど、上位世代が引退していく今後の時間は、そこにリソースを注ぐことになるかもしれない、なんてことをちらっと思ったりしています。気長に、応対していきたいと思いますけど。