カチとキチ2

自分の人間環境がどうか、という現実を見ると、わたしがお付き合いさせていただいている方々との接点、つまりわたしが他人と付き合う時の軸、ということの本質を見てみると、そこには価値の共有や連帯、というものが前提にあるように思います。

立場や境遇を超え、ある価値で繋がる人間模様、というのは、有史以来の人間の理想で、出来たり出来なかったり、時代や地域によって、したのかもしれません。

昨今の社会は、既成の社会が壊れる時流ですから、そういうことが再度クローズアップされてくる、というようなことかもしれませんね。

わたし先日友達の女の子から聞いた話で、彼からプロポーズされて、よくよく深く話をしてみると、彼の結婚観が、ものすごい理想主義(例えば、日当たりのよいおうちで草木と花に囲まれ、ニコニコ家で出迎えてくれる奥さんがいる)だということになって別れた、というのがありました。

結婚とか恋愛とか関係なく、まず共生できるか(価値の共有や連帯ができるか)ということを人付き合いの念頭に置く身としては、にわかに信じ難い話なのですが、でも逆に、価値の共有と連帯を軸に据えて、共生可能な人を数人でも探し出せた幸運、という風に考えたほうがいいかもしれない、とも思います。

自分にとって「価値」とは何か、ということをラボして人に伝えられる訓練しておいて、まずは「自分からそれを差し出す」ということをしないと、当然「価値の共有と連帯」は果たせないわけですが、社会が順調なときは、その「価値」の醸造と交換をマスメディアに委ねていればよかったということもあります。Aさん→Bさん、ではなくて、Aさん→マス→Bさん、という構図ですね。

マスメディアではこう言っている、ということを判断軸に据えていれば、良かった時代は、もう過去のものとなりつつあります。

それでも新聞や雑誌やテレビなんかを見ていると、ただ単にマスメディアは不安を煽っているだけだった、ということに気づきます。不安を煽って、人を消費に向かわせないと、ビジネスモデルが成り立たない。

今って、本来は高度資本主義を脇に置いておいて、自分の軸とか価値とか、持ち合わせているあらゆるリソースをちゃんと棚卸して、在りモノでどうやって隣人とつながり、お互い助け合って生きていくか、というマインドがポイントなんだと思うのですけど、それをマスメディアが発信してしまったら、つまり資本主義を脇に置いてしまったら、メディアは自己否定を迫られてしまうという、苦しい事情が構造的にあるのですかね。

不安を煽り、ますます個人を孤立させようとする(せざるを得ない)マスメディア。マスの時代の終わり、とか言われて久しいですけど、それでもマスに頼らなければ生きていけない人々も、まだたくさんいるでしょう。その依存度を益々高めるように誘導していくのに、今は不安を煽るということをする。

シャブ付けにして、そこから逃れられないようにする状況に似ています。(笑)

その「不安を煽る」のひとつに「マスに出てくるいろんな人がバラバラのことを言う」という手法があります。受け手を混乱させる。いまは一辺にいろんな人がいろんなことを言う、という状況が、前より酷くなっている気がします。

そんな中、わたし別々のメンターから、時に直接、時にメディアから、共通の言葉を年末年始既に2回聞いています。それは「共生と連帯」という言葉です。まずは隣と人と何か出来ませんか、と考えてみることから、再び始めるということですけど。これはたまたまの符号の一致なのか、わたしが元々「そういうことをのたまう人」をメンターとしてきたのか、どっちでもいいですけど、これである意味、その大まかな方向性には確信を持っています。

そうやって人が動いた時に、「わたしは隣の人に、何も提供できる価値がない」ともし気づいたとしたら、それでも良いんです。そしたら、それを考えることから始めれば、別によいわけですから。

わたしにとって、それはなんでしょうね。例えば「なんでもいいから冷蔵庫にある在りモノの材料で、それなりにおいしいと思ってもらえる料理が作れます。」とかね。(笑)そのために、毎日ココ(厨房)に篭るんですけどね。賄い程度でよければ、いつでもご馳走しますよ。