ダメな奴は何をやってもダメ

って、わたしら若い頃よく言ってたんですよ。

今日その話になりましてね。この言葉って本来「自戒」なんですよ。だって本質ですから。

ダメな奴は、ほんとに何をやってもダメなんです。ダメな自分を認めて、行動を起こさない限りは、ですよ。

でも「ダメな奴は何をやってもダメ」でもオレは大丈夫、と思っていた人の、今のリアルもあるわけです。つまり若い頃、「ダメな奴は〜」の言葉を吐いて、同調していた人間の中で、「そう、だから自分はダメにならないように努力しなきゃ」というタイプと、「ダメじゃない人の中に混じっていれば問題ないよね」って人と「そもそもオレはダメじゃない」って思っている人、3タイプいたと思いますけど、その人たちの今のリアルは、言わずもがな、です。

わたしはダメにならないように努力しなきゃ、と思った人は、ある時に、あまり自分と利害関係の薄い人に「あなたダメじゃないよ」と言ってもらえたり、あなたは素晴らしいわ、と感謝されたり、ある時にします。その瞬間に「ダメな奴は何をやってもダメ」とは軽々しく言えなくなります。だって自分がダメじゃないという事実を積み上げたから、ですね。

つまり自戒として「ダメ〜」という言葉を使っていた人は、同じ土壌の言葉だったんですよ。だから、自分の土壌が、人にほめられたり感謝されたりした瞬間に変わって(つまり成長して)くるので、立ち位置の違うことに対して、軽々しい言葉をはけなくなるんですよね。

それは、それまで支配していた思想(考え方)を乗り越えた、という、そういうことですね。

わたし最近考えているのは、自分からどんなにアクションを起こしても変化しないもの、例えば太陽や月の見え方とか、つまりこちらから動かそうと微々たることで変化を繰り返しても、常に同じような感じで、「こちらの葛藤がまるで無かったかのように」存在する、ある風景がある。

こうやって毎日モノを感じたり考えたりしていて、例えば10年20年考え続けても、「ダメ〜」の言説とは違って、単純に乗り越えられない、巨大な包括的な、ちょっとやそっとではびくともしない、真理や思想って、あります。

それを見つけられたとして、それをどうやって乗り越えようか、で一生を追えても(結果乗り越えられなくても)、それはそれで幸せなことだと思うし、わたしは(それが正しいとは思いませんけど)そうやって景色が簡単には変わらないものに対してどうやって対峙するか、ということを大切にして生きていきたいと思っているのです。

だから、ここでも何度も言いますが全ては気の長い話なんですけど、今日もそんな話で、まわりをイライラさせてしまいました。(苦笑)もういい加減洗面器から顔上げろと怒られました。

いまは、同じようなスパン、同じようなりズムで洗面器に顔つける人がまわりに数人いるので、助かってますが、ひとりだったら、とっくに狂ってるかもしれません。(笑)感謝したい、ですね。偶然か必然か、分かりませんけど、そういった出会いに。