孤立と孤独を混同しない

わたしがたまに飲みにいく店のマスターは70過ぎのおじいちゃんで、昭和の水商売世界を生き抜いて来た人です。(わたしのオミズメンターの一人です)

そこの店はカウンターしかなく、そこでいろんな話を聞きます。とにかく聞くだけ。(笑)
水商売人らしく、自分のことはあまり語りたがらないのですが、そこを語らせるのが「オミズ」の真髄です。(ってややこしいっすかね)

で、先日は在りし日の赤線の話になりました。

赤線で働く女性は、街に浮遊して、お客をつかまえるわけですが、お客がつかまらなければ、朝4時ぐらいまで浮遊していたそうで、マスターはお店が終わって家に帰る時、まだお客が捕まらずに浮遊している女性に座敷料を払って宿に入り、行為はせずに身の上話なんかを聞いてたそうです。

または、そのまま赤線で働く女性達の生活するところに行って、朝まで麻雀をしたり、酒盛りをしたりして、過ごしたとか。

これは赤線の話ですけど、昭和の夜の街の話というのは、どれをとってもこういう温かみを含んだ話がありますね。多少(いやかなり)美化されているとしても、メンターからの学びとしては充分過ぎる「味のある話」です。

社会からの孤立の問題、労働者の解雇問題だけではなくて、都心の都営アパートでの孤独死の問題とか、介護の問題とか、子供の教育の問題とか、孤立といっても、いろいろな表出の仕方をしています。「孤立している」という点では一緒ですが。

なんでマスターの「赤線話」が聞いていて心地よいかというと、やっぱりそこに「開放感」があるから、なんだと思うんですよね。

表現は、開放的に限る。わたし惹かれるものって昔からそれだなと、最近思うようになってきました。つまり自分の表現も、開放的であることに注意したいなと思ってるんですが、なかなか難しいですね。

それで「孤立」の問題ですけど、「孤独」はここでもずっと言ってきたように仕方がない。諦めるしかない。でも孤立は避けることができるし、自助努力で、抜け出すことは出来る。

今孤立している人は、孤独と孤立がごっちゃになっていて、孤独ではなくて孤立を諦めてしまっていないかなと、その赤線の話聞いてて思いました。

てことで、仕事初めの週、お疲れ様でございました。

今週末は、どジャズで過ごします。