オフビート

打楽器をやるとき、オフビートをいかに意識するかについての重要性というのを中学生の時、村上ポンタ秀一の発言で学んで、自分でドラム叩き続けて「なるほど!これか」という瞬間があって、今に至るのですが、オフビートっていうのは、つまり譜面に乗っかってこない「音符と音符の間」のことですね。

つまり見えないものを大切にしたい、ということですが、でもこれって音楽の話だけじゃなくて、会話の「間」とか、文章の「行間」とかね、デザインの「余白」とかね、なんか全部一緒なんですかね。

でも、なかなかね、「間」を大事にしろ、とか「行間読め」とか「余白の使い方がヘタ」とか言われても、困っちゃいますよね。

世の中には「エンターテイメント」というものがあって、例えばわたし一度だけスーパー歌舞伎っていうのに誘われて見にいったことがあって、市川猿之助が最後宙づりで舞台から2階席のほうにポーズを決めて消えていくという「お約束」がエンディングであるんですよね。毎回決められた「オチ」なんだけど、おばさまはみんなキャーキャー手を叩いて喜ぶ。

「エンターテイメント」って、でも本来そういうもので、それはそれですばらしいねって、その時思ったんですよね。予定調和の感動ってのもあるだろう、と思いました。若いときって無駄に表現に「意味性」を問いますからね。少しオトナに成長した瞬間だったかもしれません。(笑

ただわたしはオリンピックと一緒で、そういうのって4年に一回ぐらいでいいや、と思いました。

で、「オフビート」の話に戻りますけどね。

表現の裏を支える「オフビート」は、過剰なエンターテイメントの中では、かき消されてしまうですね。「目を奪われる」っていうかですね。それこそ宙づりで360度回転しながらドラムソロ、とかね。(笑)でもそれはそれでよい、と思うんです。「目を奪う」ことが目的であるわけですので。

でも表現ってバランス良く五感で感じて欲しいし逆に言うと五感で感じたい、ということだけでもいいやというのが、「オフビートを大切に」とか「行間にこそ味がある」とかいうことを言う人々や取り巻く状況の本質ですかね。「人の目を奪う」のは自分は趣味じゃない、という美感かもしれませんね。

そういう意味では、広告という「目を奪うことを目的とした」ものに支配されるメディアの表現だけに慣らされてしまうのは、怖いですよねえ。

オフビート的なことって、「教科書に書いてない」とか「学校では教えてくれないホニャララ」みたいなことですよね。「教わる」でなく「学ぶ」べきもののひとつだなと改めて思いますね。