殿馬の美学

週末に子供を連れて、いつも行く公園にピクニックにいくと「リレー大会」というような催しが行われていました。

そこの公園は、元米軍駐屯地の近くで、アメリカンハウスが立ち並んでいた場所を建物を壊して公園にしていて、米兵が去ってからハウスが壊される間の短期間ですけど、70年代の日本の先鋭クリエイターが挙って住んだ場所でもあります。

わたしにとってそこの公園は磁場がいいので、暇があるとよくそこの公園にまどろみにいくんです。遊具も人を集める仕掛けも何もない。ただセンスよく配置された木々と芝生と丘陵だけがある、という公園で、好きなんですね。

で、「リレー大会」ですけど、全然わたしとは関係のない世界の人たちが競争しているんですけど、ボーっと見てるだけでも、リレーってだけで何か燃えますね。その大会の後の静寂を、公園で寝転びつつ、その「燃え」について、ふと考えました。

例えばノーベル賞、とか最近話題でしたけど、科学の世界って、特に「リレー」的です。誰かの基礎研究を元に誰かが発展させて、何かがまた発見される。その基礎の元にまた新たに何か。。という。ノーベル賞を取る人は、「アンカー」ではなくて、そのバトンを繋いだ人。そういう人が評価されるから発見後30年後、とかになる場合があるんですけどね。なんかわたしには「肌合いのいい話」だと思っちゃいます。

会社でも仕事でも「おれがおれが」という場合は、何かとうまく行きませんね。ここでもよく出てくる話ですけど、部下の手柄を自分の功績にするとか、傲慢で高飛車なワンマン社長とか。アンカーは当然オレでしょう、みたいな節度のない自己表現はなんとなく肌合いが悪いんです。

わたし、ドカベンだと「殿馬」好きなんですよね。

謙虚というのは、自分ひとりで出来ることの限界を予めしっているということで、リレーで例えると、自分は「繋ぎ」でよい、とする姿勢ですかね。もし自分が誰かからバトンを受け継いだのだとしたら、それをどうやって次の人にバトンを渡すか、でモノを考えることに時間を費やすこと、その「つなぎ」の想像力が、自分の生の可能性をより豊かにすると思うんですね。

で、その豊かさは「バトンを渡してくれる人」と「バトンを渡す人」の存在があって初めて成立するという過酷な事実があるんです。(笑)

特に今は、その両方を見つけることが出来ずに、グラウンドの(プラットフォームの)真ん中で右往左往してる。そういう人が今は多勢ですかね。
自分ひとりでで地位、名誉、報酬、そりゃ得られるに越したことは無いですけどね。想像が「自分」で止まるから、どうしても狭小で息苦しくなるんですかね。生きてることそのものが。

人間の生って、完結に考えたら「誰からバトンを貰って、どうやって走って、誰にバトンを渡すか」でくくってもよいかと思います。30代の団塊jr世代って、そろそろ誰かからバトン貰う時期に差し掛かってる人が多いんだと思います。
バトン貰う前に、「どうやって走るか」と「どんな人からどんなバトンを貰いたいか」は決めといてコース取りしとかないと行けませんけど、後は貰って走るだけ、という惑いのない人が今どれぐらいいるか、に社会の命運は実は握られている、って、ここまで来ると大げさですね。(笑)

繋ぎの知性と想像力、ここで言ってることは「キレイ事」ではないですよ。この人にバトン貰おうと思ってコース取りして、その人は黄金のバトンを持っていたとして、うまく受け取ったら、実はバトンを持つ手の部分にうんこが付いていた、みたいなね。(笑)んな清濁はたくさんあって貰ったら貰ったで惑うし、走り出したら障害物もたくさんある。うんこ付のバトンでも、どんな障害でも、そのバトン持って、とりあえず走り出せる人のほうが、今は少ないかもしれませんね。

そんなこんなも含めて、そういう生きる原理に触れるから、リレーって見てるだけでおもろいんのかな、と思うのです。

今は情報が多すぎて、いろんなものが入り乱れてのリレーになっちゃった。立ち止まるにしろ、走るにしろ、コース外に出るにしろ、運動会自体サボるにしろ。少なくとも「時間」的に、バトン持って走る時勢ってことには世代的になってるわけなんで、ほんとは走りたかったなと後で後悔しないようには、少なくともしておきたいところだと思いますけど。

だっていま、50代の自殺が多いってのは、その「リレーの原理」を忘れちゃったことが問題の本質じゃないんですかね?